All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 651 - Chapter 660

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第651話

智也の声が響いた、その瞬間だった。かすかにすすり泣いていた沙羅は、はっとしたように勢いよく振り返った。智也の姿を目にした途端、抑えていた感情はもう堰を切ったように溢れ出した。胸の奥に込み上げるのは、安堵よりも先に、どうしようもない悔しさと切なさだった。目に溜まっていた涙が、もう止めようもなく零れ落ちる。糸の切れた真珠のように、ぽろぽろと絶え間なく頬を伝っていった。次の瞬間、沙羅はもう何も構わず、智也の胸へ飛び込んでいた。彼の服をぎゅっとつかみ、その胸を叩きながら言った。「智也、どうして今まで来てくれなかったの……?どうしてこんなに遅かったの?」同じ問いを二度繰り返すたびに、声はさらに掠れていった。智也は沙羅の押し殺すような泣き声を聞きながら、そっと後頭部に手を添えた。そして痛ましげに言った。「悪かった。俺の不注意で、お前ひとりにこんな思いをさせた」沙羅はしゃくり上げながら言う。「智也……私、もう見捨てられたのかと思った……」智也は彼女を抱き返し、やわらかな声で答えた。「そんなはずないだろ」沙羅は智也の胸から少し身を起こし、涙に濡れた目で彼を見た。「智也、お父さんが……」智也は指先で彼女の目尻の涙を拭いながら、静かに言った。「大丈夫だ。俺がいる。病院のことは、俺が手を打つ」沙羅は何度も強くうなずいた。「うん……お願い」泣き濡れた顔を見ていると、智也はやはりもう一度謝らずにはいられなかった。「悪かった。この二日、お前のことまで手が回らなかった」沙羅は首を横に振り、唇をきゅっと結んだまま言った。「大丈夫。分かってる。だって玲奈は、愛莉の本当のお母さんだもの」愛莉の名が出たところで、智也はふと思い出したように口を開いた。「ああ、そうだ。言いそびれていたけど、愛莉もこっちに来てる」それを聞いて、沙羅は一瞬きょとんとした。「愛莉も?今どこにいるの?」「こっちへ来る途中で寝てしまってな。先にホテルへ連れて行った」その答えを聞いて、沙羅の気持ちは少し落ち着いたようだった。自分で頬の涙を拭ってから、改めて尋ねた。「今日は元旦でしょう。昨日はどうして実家で年越ししなかったの?」智也は、まだ赤みの残る彼女の目を見つめて答えた。「お
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第652話

何を見ていたのかは分からない。智也は、まるでその場で意識を奪われたように、スマホを見つめたまま動かなかった。沙羅は思わず身を寄せた。「智也、何を見てるの?」彼女が近づいた気配に気づいた瞬間、智也はすぐに画面を消した。スマホをしまい込み、それから何でもないふうに言った。「別に何でもない」もし不自然な隠し方をしなければ、沙羅も気に留めなかったかもしれない。けれど、隠そうとすればするほど、そこに見られたくないものがあるのだと分かってしまった。先ほど身を寄せたとき、沙羅はほんの一瞬だけ画面の一部を見ていた。確信までは持てない。けれど、だいたいの見当はついていた。おそらく、玲奈とのやり取りの画面だったのだろう。ただ、そこに玲奈からの新しいメッセージは来ていなかった。沙羅には分かっていた。智也の中には、玲奈に対する何かしらの気がかりが確かに残っている。ただ、その思いがどこまで深いものなのかまでは、沙羅にも判断がつかなかった。沙羅がしばらく黙り込んでいるのを見て、智也が尋ねた。「何を考えてる?」沙羅は首を横に振り、唇を軽く結んで言った。「……何でもないわ」……午前一時半。広場にはもう、ほとんど人影がなかった。玲奈と昂輝は、広場の階段に並んで腰を下ろしていた。二人とも黙ったままで、どちらからも口を開こうとはしない。そうしているあいだにも、時間だけが静かに過ぎていく。長い沈黙のあと、昂輝が顔を向けて尋ねた。「今夜は春日部家に帰るの?」橙色の灯りの下、玲奈の横顔はおとなしく、静かな印象を帯びていた。彼女は昂輝を見返し、首を横に振った。「まだ帰れない」帰らないと聞いて、昂輝は一瞬だけ目を見開いた。それから、そっと問い直した。「じゃあ、どこへ行くつもり?」玲奈はまた首を振った。視線を落とし、どこか沈んだ声で言う。「自分でも分からないわ」その言葉を聞くなり、昂輝は間を置かずに言った。「それなら、うちに来る?」玲奈はきょとんとして彼を見た。「え……?」昂輝は、自分の言い方が唐突すぎたのではないかと気づいたらしい。慌てたように言葉を継いだ。「玲奈、変な意味じゃないんだ。俺はただ、その……」必死に弁解しようとするその様子が、あま
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第653話

昂輝の言葉に、玲奈はかえっていたたまれなくなった。少し困ったように、彼へ言った。「先輩、そういう意味で言ったんじゃないわ」すると昂輝は、すぐに言葉を返した。「そういうつもりじゃないなら、ここを使って」玲奈はなおも口を開いた。「でも先輩、ここは普段あなたが……」けれど昂輝は、それ以上言わせなかった。自分は部屋の外へ下がりながら、そっと扉を引いた。閉まる直前、やわらかい声で言った。「おやすみ」玲奈の言葉は、そのまま喉の奥に引っかかったままになった。閉まった扉を見つめながら、しばらく黙って考え込んだ。けれど結局、簡単に身支度だけ整えると、そのまま昂輝のベッドに横になった。彼の部屋はごくシンプルだった。華やかな飾りはなく、ベッドリネンもただ淡いグレーで統一されている。玲奈は、もともとあまり眠くなかった。けれど拓海に壊されたせいでスマホも使えず、時間をつぶす術もない。ふと、先に帰っていった智也のことが頭をよぎった。今ごろ何をしているのだろう。やはり、沙羅と一緒にいるのだろうか。――きっと、そうなのだろう。そんなことを思っているうちに、玲奈はまた別のことを考えた。離婚の熟慮期間が明けるまで、もう三日しかない。そのことを思いながら、玲奈は布団を抱き込むようにして、いつの間にか眠りに落ちていた。翌朝、玲奈は早くに目を覚ました。少し寝床が変わると眠りが浅くなるせいか、目覚めはずいぶん早かった。しばらく天井を見たまま横になっていると、部屋の外から物音が聞こえてきた。昂輝が何をしているのか気になって、玲奈は身支度を整えると部屋を出た。寝室の扉を開けて外へ出ると、ちょうど朝の光が床まで届く大きな窓から、リビングいっぱいに差し込んでいた。昂輝はオープンキッチンに立っていた。エプロンをつけ、箸を手にして、フライパンの中を返している。玲奈は少し不思議に思い、そっと近づいて声をかけた。「先輩、朝ごはん作ってるの?」昂輝は彼女が近くまで来たのに気づくと、まず心配そうに尋ねた。「起こしちゃった?」玲奈は首を横に振った。「ううん。私、もともと眠りが浅いから」それを聞いて、昂輝はやさしく笑った。「睡眠の研究をしてる友人がいるんだ。時間があるときにでも会
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第654話

ふと視線を落とすと、表示されていたのは見覚えのない番号だった。昂輝は少し考えてから、電話に出た。「もしもし。どちら様ですか」相手は富士城の病院関係者だった。それを聞いて、昂輝は不思議そうに尋ねた。「どうかしましたか」玲奈は、相手が何を話しているのかをわざわざ聞こうとはしなかった。ただ、ゆっくりと昂輝の家へ目を巡らせた。採光は申し分なく、外の環境も落ち着いていて、空気まで心地いい。穏やかに暮らすには、申し分のない家だった。視線を戻したとき、ちょうど昂輝も通話を終えたところだった。玲奈は彼を見て、少し首をかしげた。「何かあったの?」昂輝はスマホをしまいながら、あっさりと答えた。「隣の街で手術が入った。向こうへ行かないといけない」その声は驚くほど落ち着いていた。せっかくの休みが、一本の電話で崩されてしまったのだ。普通なら、少しくらい苛立ってもおかしくない。それなのに昂輝は、少しもそんな様子を見せなかった。玲奈はそんな彼にあらためて感心しながら、小さく笑って尋ねた。「いつ出るの?」だが昂輝は、その問いには答えず、逆に玲奈へ尋ね返した。「玲奈は?俺と一緒に富士城へ来る気はない?」玲奈は少し迷ったものの、やはり首を横に振った。「私は春日部家に戻るわ」昂輝は無理に引き留めようとはしなかった。「分かった」彼にとっては、玲奈の気持ちが何より優先だった。朝食を終えると、昂輝は富士城へ向かう支度を始めた。玲奈が外へ出ると、昂輝が呼んでくれたタクシーがすでに待っていた。その車が見えなくなるまで見送ってから、昂輝はあらためて自分の車を拾った。玲奈はそのまま春日部家へ帰ったわけではなかった。途中でショッピングモールに立ち寄り、新しいスマホを買い、SIMも再発行してから、ようやくタクシーで春日部家へ向かった。家へ戻る道中、玲奈の胸の内はずっと落ち着かなかった。理由は自分でもはっきりしない。ただ、どこか嫌な胸騒ぎがしていた。門をくぐった、そのときだった。新しいスマホが鳴り出した。着信は昂輝からだった。玲奈は電話に出るなり、自分から口を開いた。「先輩、今ちょうど家に着いたわ」昂輝はまず短く「うん」と答え、それからあらためて玲奈の名を呼んだ。
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第655話

気持ちを立て直しきれていない玲奈の元に、家の中から弾んだ明るい声が届いた。「おばちゃん、おかえり!」顔を上げると、ふわふわした小さな影がこちらへ一目散に駆けてきていた。玲奈の胸はたちまちやわらぎ、彼女はその場にしゃがみ込み、両腕を広げて陽葵を迎えた。陽葵は勢いよく飛び込んできて、そのまま玲奈の胸に収まった。「おばちゃん、陽葵、すっごく会いたかった。やっと帰ってきてくれたね」陽葵は玲奈の首にしがみつき、小さな頬を何度も彼女の頬へすり寄せた。まるで甘えたがる子猫のようだった。玲奈の胸はすっかりほどけてしまい、陽葵をそっと抱きしめる。鼻の奥がつんとして、気づけば涙が込み上げていた。「ごめんね。こんな遅くなっちゃって」すると陽葵は首を振った。「ちがうよ。ママが言ってたの。おばちゃんは、すっごくすっごく大事なことをしに行ってるんだって。ママ、終わったらおばちゃんはずっと春日部のおうちにいられるし、毎日陽葵と一緒にいられるって言ってたよ」その言葉を聞いて、玲奈はすぐに綾乃の意図を悟った。もちろん陽葵はまだ小さくて、その本当の意味までは分かっていない。ただ、ママの言うとおり、おばちゃんが用事を終えれば、ずっと家にいられるのだと、素直に信じているだけなのだ。そうなれば、家族みんながまた一緒にいられる――陽葵は、ただそれだけを思っている。玲奈は立ち上がり、陽葵の手を取って家の中へ向かった。歩きながら、玲奈は尋ねた。「陽葵ちゃん、ママは?」「撮影に行ってるよ」家の中が妙に静かなことに気づき、玲奈はさらに訊いた。「じゃあ、おじいちゃんとおばあちゃんは?」「公園に行ったの」「パパは?」「朝から会社だよ」それを聞いた途端、玲奈の胸はまた落ち着かなくなった。今日は元日だというのに、家には誰もいない。陽葵のことが急にひどく不憫に思えて、玲奈は思わず尋ねた。「ひとりで退屈じゃなかった?」すると陽葵は首をかしげ、見上げて答えた。「ううん。おばちゃんが帰ってきたから、もうつまんなくないよ」玲奈はそっと陽葵の頭を撫でた。「じゃあ、おばちゃんと少しお出かけしようか」陽葵はすぐにうなずきかけたが、ふと何か思いついたように言った。「おばちゃん、ママがお仕事してるところ
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第656話

「春日部さん、あなた本当に撮れるんですか?」「その服、もう少し下げられないの?そんなにきっちり隠して、誰が見るっていうのよ」「ねえ、今どきこんなの当たり前の時代だよ。ここで服を脱いで立ったところで、誰も大して見やしない。女なんて、ちょっと出っ張ってるところがあるだけだろ?」玲奈は陽葵の手を引いたまま、撮影ブースの入り口に立ち尽くしていた。このまま陽葵を連れて離れようと思ったが、もう遅かった。陽葵はその言葉を全部聞いてしまっていた。それどころか、怒りのあまり、そのまま中へ飛び込んでいった。玲奈も慌てて後を追う。陽葵は身軽だった。ブースへ駆け込むと、綾乃のすぐ近くに立っていた男に向かって、思いきり蹴りを入れた。その勢いのまま、大声で叫んだ。「この悪いやつ!ママをいじめるな!」玲奈が入り口まで駆けつけた、そのときだった。陽葵の頬に、容赦ない平手打ちが飛んだ。「このクソガキ、てめえみたいなのが俺を蹴っていいと思ってんのか?死にたいのか!」明人の声だった。陽葵はその一撃で床へ叩きつけられ、何が起きたのか分からないまま呆然としていた。タイトなドレス姿の綾乃も、反応する間もなく、陽葵が打たれるのを目の当たりにした。次の瞬間には、玲奈も綾乃も同時に陽葵へ駆け寄っていた。距離の近かった綾乃が一歩早く、陽葵を抱き上げる。震える小さな体を胸に抱え込み、庇うように腕の中へ包み込んだ。そのまま顔を上げ、怒りを露わにして明人を睨みつけた。「子どもに手を上げるなんて、あなたそれでも男なの?」綾乃の怒りを受けても、明人は悪びれるどころか、むしろ口元を歪めて笑った。「男じゃなくたって別にいいだろ。で、それが何か?飯でも食わせてくれるのかよ」人に綾乃を侮辱させておいて平然としているどころか、陽葵にまで手を上げた。玲奈はブースに入ったときからずっと陽葵が心配で、まずはそちらへ駆け寄ろうとしていた。だが、明人のあまりの傲慢さを目にし、もう堪えきれなかった。大股で踏み込み、そのまま腕を振り上げる。力いっぱい振り抜いた平手で、明人の頬を打った。明人は殴られた勢いで顔を横へ振られ、痺れた頬を舌先で押さえるようにした。しばらくしてから、ようやくゆっくり顔を戻す。怒りに目を
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第657話

人が増えてきたのを見ると、玲奈はすぐに陽葵を胸の中へかばい込んだ。綾乃も寄り添うように身を寄せ、二人で陽葵を真ん中に囲う。床にうずくまっていた明人は、苦しげに二度ほど呻いてから、ようやく少し落ち着きを取り戻した。手下に支えられて立ち上がった彼の顔は、血の気を失うほど青ざめ、額には汗が滲んでいた。その黒い瞳だけが、氷を溶かし込んだように冷えきって、底知れない光を放っていた。玲奈を睨みつけながら、明人は歯を食いしばるように吐き捨てた。「このクソ……殺されたいのか」その言葉にも、玲奈は彼を見ようともしなかった。綾乃の手を引き、陽葵を真ん中に守ったまま、そのまま外へ出ようとした。入り口には男たちが立ちふさがっていたが、玲奈は意にも介さず、そのまま突破しようとした。だが次の瞬間、明人の低い命令が飛んだ。「捕まえろ」その一声で、男たちが一斉に動いた。たちまち左右から押さえ込まれ、玲奈と綾乃はそれぞれ腕をつかまれた。多勢に無勢だった。今の二人は、まな板の上に載せられた獲物と何も変わらない。陽葵は目を真っ赤にして、声を張り裂けそうなほど泣き出した。「ママ……おばちゃん……!」綾乃も怖かった。けれど、それでも必死に自分を落ち着かせ、なるべくやさしい声で陽葵をなだめた。「陽葵、泣かないで。大丈夫、きっと大丈夫だから。ママの言うこと聞いて、泣かないで」その声を聞いた陽葵は、どれほど怯えていても、どうにか泣くのを止めようとした。そのころには、明人もほぼ痛みから立ち直っていた。自分を支えていた男の手を乱暴に振り払い、そのまま玲奈の前まで歩み寄る。目の前まで迫ると、玲奈の目をじっと覗き込み、ふいに冷たい笑いを漏らした。そのまま手を上げ、彼女の顎を強くつかんだ。整ったその顔を見つめた瞬間、明人の欲望があからさまに動いた。だが次の瞬間、彼は侮蔑するように玲奈の顔へ唾を吐きかけた。玲奈は目を閉じた。こんな侮辱など感じないふりをしたかった。けれど頬にかかった唾液の感触は、あまりにも生々しく、べったりと残っていた。吐き気が込み上げる。それでも、必死で飲み込んだ。その光景を見た陽葵は、恐怖でまた涙をぼろぼろ零しながら叫んだ。「おばちゃん!」綾乃も見ていた。そして、胸が
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第658話

玲奈は、もう抑えきれなかった。背後から両腕を押さえつけられ、身動きは取れない。それでも彼女は、明人へ向かって激しい声をぶつけた。「明人さん、あなた人間じゃないわ!」すると明人は、怒るどころか笑った。「そうだよ。俺は獣だ。それがどうした?」その言葉が落ちた直後だった。明人が突然、痛みに顔を歪めた。「っ……!」玲奈が視線を落とすと、陽葵が明人の脚に噛みついていた。小さな体で、必死に食らいついている。だが玲奈と綾乃が止める声を上げるより早く、明人は陽葵を蹴り飛ばした。陽葵は床に叩きつけられ、そのまま意識を失った。その瞬間、玲奈と綾乃はほとんど同時に叫んだ。「陽葵!陽葵!」明人は身をかがめて自分の脚を押さえ、怒りにまかせて、倒れた陽葵をさらに蹴りつけた。綾乃は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、崩れ落ちそうな声で叫んだ。「明人さん、子どもにはやめて!この子に罪はないでしょう!」明人は振り返り、綾乃を憎しみに満ちた目で見た。「今さら子どもは関係ないとか言うのか?こいつが俺に噛みついたんだぞ。そっちこそ責任取れるのかよ」玲奈は怒りに震えながら叫んだ。「どこまで恥知らずなの!」だが明人は、もう玲奈たちの言葉に耳を貸す気はなかった。片手を上げ、そばにいた手下へ命じる。「こいつら、車に連れて行け」命じられた男が、小声で尋ねた。「明人さん、どっちをです?」明人の視線が、玲奈と綾乃の顔を行き来する。そして、ぞっとするほど平然とした口調で言った。「二人ともだ」その言葉に、手下たちの顔にいやらしい笑みが浮かんだ。男たちが玲奈と綾乃へ手を伸ばしかけた、そのときだった。ブースの外から、一斉に駆け込んでくる足音が響いた。重なり合うその音は、まるで蹄のように激しく迫ってくる。次の瞬間、冷えきった、傲然とした声が場を切り裂いた。「俺の女に手を出すのは、どいつだ?」拓海の声だった。その声に続いて、外からさらに大勢の男たちがなだれ込んでくる。あっという間にブースの中は人で埋まり、今度は明人の側の連中が包囲される形になった。形勢は一瞬で逆転した。明人の手下たちは相手の人数を見た途端、さっきまでの威勢を失い、慌てて明人の背後へと下がっていく。その最
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第659話

明人は、拓海の目に宿った剥き出しの殺気を感じ取った瞬間、背筋に冷たいものが走った。もうその目をまともに見ることができなくなった。必死に周囲へ視線を走らせ、どこかに逃げ道はないか探す。けれど拓海が連れてきた男たちは、隙間ひとつないほど周囲を固めていた。今この場からは、蠅一匹たりとも逃げ出せない――そんな空気だった。明人は何も言い返さなかった。その態度を見ただけで、拓海には十分だった。陽葵に手を出したのは間違いない。その瞬間、拓海の中で最後の一線が切れた。彼は顔を背後へ向け、先頭に立っていた男へ低く言い渡した。「悠真。先にあの二人を外へ」頬に刀傷の走る男は、すぐに応じた。「かしこまりました、須賀さん」そう言うと、彼は丁重な態度で玲奈と綾乃を促した。綾乃は陽葵を抱いたまま、足早に外へ向かう。歩きながらも、何度も陽葵の名を呼んでいた。玲奈もその横に付き添いながら、胸の痛みを抑えきれなかった。撮影ブースを出るとき、玲奈は思わず一度だけ振り返った。密集した人影の向こうに、拓海の背中がかろうじて見えた。拓海は明人を隅へ追い詰めていた。明人はもうしゃがみ込み、拓海は靴先でその顎を持ち上げていた。何を言っているのかまでは聞こえない。けれど玲奈には分かった。きっとその言葉は、明人が吐いたどんな罵倒よりも、何倍も何十倍も容赦のないものなのだろう。完全にブースの外へ出たとき、中から明人の悲鳴と懇願が響いてきた。「須賀、お前どうかしてる!頼む、許してくれ!話し合おう、何でも言うことを聞くから……!」その助けを求める声を聞いても、玲奈の胸に浮かんだのは痛快さではなかった。あったのは、別の不安だった。玲奈は一瞬迷い、それでも踵を返して走り戻った。そしてブースの中へ向かって、声を張り上げた。「須賀君!怪我を悪化させたら、もう二度と会わないから!」そう言い切ると、彼女はまたすぐに駆け去った。自分の声が拓海に届いたかどうかは、玲奈にも分からない。けれど今、彼女がそばにいるべき相手は、綾乃と陽葵のほうだった。病院へ運ばれたあと、陽葵にはひと通りの検査が行われた。診察を終えた医師の見立てでは、大きな異常はない。ただ、軽い擦過傷があり、ひどく怯えている状態だとい
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第660話

綾乃が陽葵についていてくれるのを見て、玲奈は陽葵に何か食べられるものを買ってこようと思った。病室を出たところで、まだ峰田悠真(みねだ ゆうま)が扉の脇に立っているのに気づく。悠真は玲奈を見ると、軽く頭を下げて声をかけた。「春日部さん」玲奈は一瞬きょとんとしたが、すぐにその呼び方の意味を悟った。何か言って訂正しようかとも思ったものの、結局やめた。拓海の指示でそう呼んでいるのなら、この人たちは拓海の言うことしか聞かないのだろう。自分が何を言っても、きっと意味はない。だが、拓海のことを思い出すと、まだ姿を見せないのが気にかかった。玲奈は悠真に尋ねる。「そうだ、須賀君は?どうしてまだ来ないの?」すると悠真は視線を逸らした。「それは……」どうにも答えにくそうな様子だった。玲奈はその目の泳ぎ方を見て、さらに問いただそうとした。そのとき背後から、あの傲然とした、どこか人を食った声が聞こえてきた。「ここにいるよ。少し会わなかっただけで、そんなに俺に会いたかったのか?」玲奈は振り返った。そこに立っていたのは、来たときと同じ黒いコート姿の拓海だった。ただ、光の下で見る顔色は、やはり少し白い。玲奈は余計なことは言わず、まっすぐ彼のほうへ歩み寄った。「傷、見せて」だが拓海は、彼女が近づくのを許さない。玲奈が一歩詰めれば、拓海は二歩下がる。「平気だって。見なくていい」その態度に、玲奈は声を低くして言った。「須賀君、そこで止まって」その一言で、拓海は本当にぴたりと足を止めた。前にも同じことがあったから、玲奈には分かった。拓海が自分から距離を取ろうとするときは、傷がまた開いているときだ。彼が止まったのを見て、玲奈はそのまま大股で近づいた。目の前まで行くと、すぐにコートの下のインナーへ手を伸ばす。裾を持ち上げた瞬間、鍛え上げられた腹筋があらわになった。肌は日に焼けたような色をしていて、照明の下では蜂蜜のような艶を帯びている。その体を見た瞬間、玲奈は思わず体が熱くなるのを感じた。けれど今は傷を見るのが先だと、自分に言い聞かせるように気持ちを押さえ込んだ。病室の前には人の出入りもある。それなのに玲奈は構わず、拓海の服をめくり続けた。拓海は嫌がるどこ
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