追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません의 모든 챕터: 챕터 201 - 챕터 210

290 챕터

第201話 白衣の紳士と、普通の未来③

 呼吸を楽にするための機能を持たない、ただの無能な人間に戻ってしまったら。 あの人は、それでも私の名前を呼んでくれるだろうか。『苦しくても……お前がいい』 昨夜のあの言葉は、痛みを堪えきれなくなった錯乱のせいだと言い捨てられたばかりだ。 力の無い私が、あの巨大な黒竜の隣に立つ理由なんて、どこにも残らなくなってしまうのではないか。「……お断りします」 沈黙の海から浮上するように、ようやく言葉を絞り出した。 ヴィクトルの完璧な微笑みが、ほんのわずかだけ、数ミリだけ形を歪める。「私の力は、誰かに抽出されて使われるためのものじゃありません。命が削られても……私が、自分で決めて使うものです」「なるほど。自己犠牲の精神ですか。美しいですが、ひどく愚かだ」 ヴィクトルはため息をつき、静かに首を横に振った。「あなたが今のままあの怪物の隣に留まれば、結果は二つに一つです。あなたが灰になるか、あるいは……限界を超えた怪物が、その本能のままにあなたを骨ごと食い尽くすか」 背筋に、氷を滑り込ませられたような悪寒が走る。 昨日の夜、黎自身が恐れていたこと。 自分の理性が吹き飛び、私の熱に食らいついてしまうかもしれないという、人外としての圧倒的な飢餓感。「私は……」「言葉で飾るのは簡単です。しかし、あなた自身の肉体は、すでに限界の悲鳴を上げている」 ヴィクトルの視線が、再び右手の指先へと突き刺さる。「あの有栖川の呪具のネットワークは、確かに物理的には破壊されたかもしれない。しかし、あなたの魂の回路には、長年繋がれていた見えない管の傷跡が残っている。そこに力が通るたびに、不快なノイズが走るはずだ。放置すれば、いずれその傷口からあなたの自我そのものが腐り落ちる」 言い当てられた事実に、反論の言葉が喉元で詰まる。 ピアノの鍵盤にこびりついていた、あの黒い靄。 黎が唇で焼き切ってくれた時の、あのチリチリとした焼
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第202話 白衣の紳士と、普通の未来④

 置かれたカードには、数字の羅列と、蛇が自らの尾を噛む『ウロボロス』の紋章が刻印されている。「お待ちください! あなた、どうして私にここまで……」 立ち去ろうとする白い背中に向かって、思わず声を張り上げる。 純粋な学術的興味だと言っていたが、それだけで見ず知らずの人間の魂を修復し、力を抽出するような大掛かりな提案をするはずがない。 ヴィクトルは歩みを止めず、肩越しに少しだけ振り返った。 薄青い瞳の奥に、先ほどまでの無機質な観察者の目とは違う、ひどく泥臭く、執念深い色が揺らめいているのが見えた。「……あなたの祖母君が、かつてあの『奈落』の底で何を調べ、何を書き残したのか」 祖母の。 その単語に、心臓が跳ね上がる。「その手記の断片を、私の研究室で保管しています。……あなたが継承したその力の本当の意味を知りたければ、来るべきです。有栖川瀬理亜さん」 言い残し、白いスーツの男はラウンジの出口へと向かって、足音一つ立てずに歩き去っていく。 周囲のテーブルの客たちは、誰一人としてあの異質な男の存在に気づいていないかのようだった。「お待たせー! 見てよこれ、形が完璧なイチゴのタルト、奇跡的に残ってたんだよね!」 入れ替わるようにして、白亜が満面の笑みで戻ってきた。 テーブルの上に、さらに五つのケーキが乗った巨大な皿がドンと置かれる。「あれ? お姉さん、顔色悪いよ。……それに、なんか変な匂いがする」 白亜の淡い瞳が、すっと細められた。 鼻をひくひくと動かし、空間に漂う微かな消毒液の匂いを正確に嗅ぎ取っている。「……なんでも、ないです。ちょっと、空調が寒くて」 テーブルの上に置かれたままの黒いカードを、白亜の視線から隠すようにして、素早く手のひらで覆い隠す。 指先に触れたカードの表面は、氷のように冷たかった。 祖母の手記。 有栖川の屋敷の地下で、黎と祖母が言葉を交わし、私へと受け継
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第203話 白亜の迷いと、竜の常識①

 手のひらの下で、氷のような冷たさを放つ黒いカード。 指先に力を込め、テーブルクロスに押し付けるようにして完全に隠し込む。 目の前に座った真っ白なコートの少女は、大きな平皿に山盛りにされたケーキの山を前にして、鼻をひくひくと動かしていた。「……やっぱり、変な匂いがする」 白亜の淡いアイスブルーの瞳が、ラウンジの空間をゆっくりと見回す。「消毒液みたいな、薬臭い匂い。それと、すごく重くて甘ったるい、人間が作った香水。お姉さん、さっきまでここに誰かいた?」 竜の嗅覚は、ごまかしが効かない。 喉にへばりつく嫌な渇きを飲み込み、視線をティーカップの冷めた紅茶へと落とした。「……誰も、いません。気のせいですよ。ほら、早く食べないと、せっかくの綺麗なイチゴが崩れちゃいます」 努めて平坦な声を作り、ビュッフェ台から戻ってきたばかりのケーキを指差す。 白亜は疑わしそうに目を細めたが、やがて目の前の鮮やかな赤いイチゴが乗ったタルトに視線を移すと、小さく鼻を鳴らした。「ふーん。まあいいや。人間社会の匂いなんて、どれもどぶ泥と香水を混ぜたみたいなものだし」 手にした銀色のフォークを器用に使い、タルトの端をサクリと切り分ける。 たっぷりのカスタードクリームと艶やかなイチゴが、小さな口の中へと吸い込まれていった。 幸せそうに頬を緩める姿は、どこからどう見ても、甘いものに目がない人間の少女と変わらない。背中に、白く巨大な竜の翼が隠されていることなど、周囲の席で談笑する客たちは誰も気づいていないだろう。 テーブルの下で、黒いカードの硬い角が指の腹に食い込む。『切り離せば、あなたはただの普通の少女として自由になれる』 ヴィクトルの滑らかな声が、耳の奥で粘り気を持って反響し続けている。 魂の根幹から、浄化の力を抜き取る。 そうすれば、黎の肺を癒やす増幅装置を作れると言った。黎は呼吸の苦しみから永遠に解放され、私の命が削られることもなくなる。 普通の未来。 あのペントハウスの扉が閉ざされた今、そ
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第204話 白亜の迷いと、竜の常識②

「竜の寿命はね、人間なんかとは比べ物にならないくらい長い。千年も二千年も、ただ息をして、空を飛んで、終わりのない時間を生きるの。その果てしなく続く退屈な時間の中で、ただ一つ、自分の魂と完全に共鳴する存在。それが番」 ラウンジの奥で奏でられるピアノの旋律が、少しだけ悲しげな短調へと変わる。「だから、竜は番を見つけたら、絶対に手放さない。世界の端から端まで追いかけて、骨の髄まで自分のものにしようとする。……ノワールが、お姉さんに対して異常なくらい執着してたのは、そういう竜の常識があるから」 白亜は口元のクリームを舌でペロリと舐め取り、テーブルに肘をついた。「でもさ。人間は、すぐに死んじゃうでしょう?」 残酷なまでの正論が、暖房の効いた空間の温度を急激に下げたような錯覚。「竜にとっての数十年なんて、ほんの瞬きみたいな時間だよ。その短い瞬きが終わったら、残された竜は、また永遠に続く孤独な時間を、たった一人で生きなきゃいけない」 白亜の瞳の奥で、何かが微かに揺らぐのが見えた。「番を失った竜はね、狂うの。自分の魂の半分をもぎ取られたのと同じだから。痛くて、苦しくて、世界中の全部を壊してしまいたくなるくらい、深い絶望に落ちる。……ノワールが今、お姉さんを遠ざけてるのは、その恐怖に気づいたからだよ」 心臓が、ドクンと大きく音を立てた。 黎が、怖がっている。 私の命が削られること。いずれ私が先に死んで、彼一人を残していくこと。『俺の肺など、このまま千切れて腐り落ちた方が何万倍もマシだ』 昨夜、書斎のドア越しに響いたあの悲鳴のような声の理由が、白亜の言葉によって明確な輪郭を持って浮かび上がる。 黎は、私が役に立たなくなったから捨てたのではない。 人間という脆すぎる存在を番に選んでしまったことの、途方もない代償の重さに耐えきれず、自ら扉を閉ざしたのだ。「……だから、人間の女の子を番にしちゃうなんて、ノワールは本当に馬鹿なの」 白亜は不満そうに口を尖らせ、三つ目のモンブランに手を伸ばした。
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第205話 白亜の迷いと、竜の常識③

「お姉さん……。私、竜だよ? 人間なんて、本気出せば一息で丸焦げにできるんだよ?」「知ってます。でも、今はただの、ケーキが好きな女の子でしょう?」 もう一度、ナプキンで口元を優しく押さえる。 ひんやりとした皮膚の感触。 白亜はパチパチと何度か瞬きをした後、急に顔を真っ赤にして視線を逸らした。「……っ、人間って、ほんとに変! そんなに無防備に近づいて、いつか食べられちゃうからね!」 フォークを乱暴に動かし、モンブランを崩し始める。 その怒ったような声の裏側に、どこか照れ隠しのような響きが混ざっているのを感じて、胸の奥が少しだけ温かくなった。 黎も、白亜も。 人外の恐ろしい怪物だと言われているけれど、その内側にあるのは、痛みを恐れ、孤独を持て余している、ひどく不器用で純粋な魂だ。 テーブルの下。 左手で覆い隠していた黒いカードの感触を、もう一度確かめる。 普通の未来。 力がなくなれば、命が削られる恐怖からは解放される。 でも、私が普通の人間になって、黎との繋がりを安全なところから見守るだけの存在になったら。 永遠の時間を生きるあの人に、私は「私のままで」触れることができるだろうか。『あなたの祖母君が、かつてあの奈落の底で何を調べ、何を書き残したのか』 ヴィクトルの残した言葉が、再び耳の奥で蘇る。 有栖川の呪い。祖母の記録。 私の力が、ただ命を削るだけの使い捨ての道具なのか、それとも、別の意味を持っているのか。 それを確かめない限り、私はペントハウスの閉ざされた扉を、もう二度と叩くことはできない。 テーブルの下から、黒いカードをゆっくりと引き抜いた。 銀色の縁取りが施された硬い紙片が、ホテルのラウンジの照明を反射して鈍く光る。「……白亜ちゃん」 静かな声で呼びかけると、白亜がモンブランを口に入れたまま顔を上げた。 テーブルの中央に、その黒いカードを滑らせる。「これ、さっきの匂い
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第206話 白亜の迷いと、竜の常識④

「罠でも、行きます」 はっきりと、言葉を紡いだ。「……は?」 白亜の目が、信じられないものを見るように見開かれる。「行くって、どこに? そいつの研究室に?」「はい」 ティーカップの横に両手を置き、背筋を伸ばす。「私の力が、本当に命を削るだけの不吉なものなのか。それとも、お祖母様が私に何かを託してくれたのか。……それを知りたいんです」「死ぬかもしれないんだよ!? いや、間違いなく解剖されて標本にされるって!」 白亜が身を乗り出し、バンッとテーブルを叩いた。 周囲の客たちが何事かと視線を向けるが、白亜はまったく気にする様子もない。「ノワールがどうしてあんなに必死になってお姉さんを遠ざけたと思ってるの! お姉さんが自分から罠に飛び込むなんて知ったら、あの黒竜、今度こそ完全に理性を飛ばして東京ごと焼き尽くすよ!」「だから、黎様には言いません」 静かに、けれど絶対に譲らない意志を込めて白亜を見つめる。「私が自分で決めたことです。……もし、力が切り離せるなら、それはそれでいい。黎様が苦しまなくて済むなら。でも、もしそれが嘘で、お祖母様の手記に本当の答えがあるなら、私はそれを取り戻さなきゃいけない」 有栖川の屋敷の地下で、一人で震えていた頃には戻らない。 閉ざされた扉の前で、ただ泣いているだけの私じゃダメなのだ。 白亜のアイスブルーの瞳が、困惑と、苛立ちと、そして僅かな感嘆の色を交えて揺れ動いている。 長い沈黙が、テーブルの上に降りた。 クラシックピアノの旋律だけが、焦燥感を煽るようにテンポを速めている。 やがて、白亜は乱暴に自分の真っ白な髪を掻き乱し、天井を仰いだ。「あーもう! ほんっとに、人間って頑固で馬鹿! ノワールが狂うのもわかる気がしてきた!」 白亜は大きなため息をつき、テーブルの上の黒いカードを二本指で摘み上げた。「わかった。……一人で行かせたら、あとでノワールに何をされるかわかっ
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第207話 研究施設への招待状①

 高級ホテルの重厚な自動ドアが左右に開くと、それまでラウンジを満たしていた温かいカカオの匂いが、冬の乾いた冷気によって一気に押し流された。 石畳の車寄せには、きらびやかなネオンの光が街路樹の隙間から斑模様になって落ちている。白亜は真っ白なコートのポケットに両手を突っ込み、銀色の長い髪を寒風に揺らしながら、二本指で摘み上げた黒いカードを街灯の光に透かしていた。「ウロボロス極東支部ねえ。あいつら、数年前からこの街の地下でこそこそ動いてるなと思ってたけど、まさかこんな一等地に近い場所に拠点を構えてるなんて、随分とお金が余ってるんだ」 アイスブルーの瞳が、カードの表面に刻まれた蛇の紋章を鋭く見つめる。「白亜ちゃん、場所がわかるんですか」 ウールコートのポケットの奥で、祖母の形見である銀のロケットをぎゅっと握りしめた。指の腹に伝わる冷たい真鍮の質感が、胸の奥にある細い管を微かに震わせるような感覚を呼ぶ。「わかるよ。私たちからすれば、あそこからは人間の強欲を煮詰めたような、独特のきつい匂いが漏れ出してるから。……でも、本当に行くの。ノワールが知ったら、その瞬間にこのエリア一帯が灰の山に変わるよ」「行きます。……このまま何も知らないで、ただあの部屋で息を潜めているだけなのは、もう嫌なんです」 顎を少し引き、まっすぐに視線を見返した。 白亜はしばらく顔を覗き込んできたが、やがて、持っていたクレープの包み紙を小さく折りたたみながら、大げさにため息をついた。「ほんっと、人間って頑固。ノワールがあんなに必死になって無菌室に閉じ込めようとしてた理由、ちょっとだけ分かってきた気がする。壊れやすいおもちゃほど、大人が必死になって隠したがるのと同じだよね」 口元のマロンクリームを舌先で器用に舐めとると、通りかかった空車のタクシーに向かって、細い右腕をひらひらと振った。 キィ、と軽いブレーキ音を立てて、緑色のラインが入ったセダンがロータリーに滑り込んでくる。「乗って。人間に合わせてこういう狭い箱に乗るなんて、私ってば本当に親切すぎ」 白亜は不満げに口を尖らせながら、後部座
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第208話 研究施設への招待状②

 不意に、銀髪の頭がこちらを向いた。「はい。研究者だって、名乗っていました」「あいつの目、見たでしょ。人間の学者って、時々あんな風に、すべての命を数字とパズルのピースみたいに並べ替えて考える奴がいるんだよね。……私たちの同族でも、大昔にいたよ。自分の力を増幅させたくて、周りの自然をすべて取り込もうとして、最後には自滅した馬鹿なやつが」 白亜の言葉には、いつもの軽薄なトーンの裏に、底知れない時間の重みが混ざっていた。「切り離せば、普通の人間になれるって言われました。黎様の肺を癒やす増幅装置を作れる、とも」 ポケットの中の手が、さらにきつくロケットを締め上げる。「そんなの、全部嘘に決まってるじゃん。魂に根付いた力を切り離すなんて、そんな便利な手術、人間の手でできるわけがないよ。お姉さんのその清らかな風の出処を、根こそぎ引っこ抜いて、ジュースみたいに絞り取るつもりだよ」「……わかっています。罠だって、あの男の目が言っていましたから」「じゃあ、なんで行くのさ。解剖されて、ガラスの瓶の中に詰められても知らないよ」 白亜は座席に深く背中を預け、不思議そうに首を傾げた。 人間の常識からすれば、命の危険がある場所へ自ら向かうなど、愚かさの極みだろう。有栖川の屋敷で床を磨かされていた頃の自分なら、間違いなく恐怖のあまり部屋の隅で膝を抱えていたはずだ。「……確かめたいんです」 窓ガラスに映る、自分の青ざめた顔をじっと見つめた。「私のこの力が、ただ自分の命を燃やすだけの不吉なものなのか。それとも、お祖母様が私に、何か別の意味を託してくれたのか。……それを知らないと、私はもう、あの黒いピアノの蓋を開けることも、黎様の手を握ることもできません」 黎のあの熱い体温。 私を傷つけることを恐れ、書斎の冷たい壁際で自分を縛り付けていた、あの孤独な巨体。 あの人の隣で、ただの酸素マスクとしてではなく、一人の人間として息を吸うために、この不快な過去の鎖を完全に断ち切らなければならない。 
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第209話 研究施設への招待状③

 ◇ 料金を支払い、車外へ足を踏み出すと、海からの湿った冷たい風が、コートの裾を激しく煽った。 頭上には、どんよりとした灰色の雲が低く垂れ込め、遠くで船の汽笛がブゥゥ、と重く響いている。周囲には人影もなく、古い倉庫のトタン壁が風に吹かれてガタガタと乾いた音を立てていた。 その寂れた景色の真ん中に、不自然なほど近代的な五階建てのオフィスビルがそびえ立っていた。 全面がミラーガラスで覆われた外壁は、どんよりとした冬の空を無機質に反射している。入り口の自動ドアの横には、小さな真鍮のプレートに『極東先進医療科学研究所』とだけ刻まれていた。「中から、すっごいきつい薬の匂いが漏れ出してる」 白亜が鼻をひくひくと動かし、嫌そうに顔をしかめた。「黎様のペントハウスとは、全然違う匂いですね」「ノワールの部屋は、お姉さんの匂いが染み付いてるからまだマシだけど、ここは完全な無菌室の匂い。生き物の体温とか、息遣いを全部否定するような、冷たい壁の匂いがする」 白亜はコートの襟をきゅっと掴み、先頭に立って自動ドアへと近づいた。 近づくと、センサーが反応してガラスの扉が静かに左右へ開く。 エントランスホールの内部は、床から天井、壁に至るまで、すべてが真っ白な大理石とプラスチックのパネルで統一されていた。照明の光が強すぎて、床の表面が鏡のように白く発光している。 中央の受付デスクには、誰の姿もなかった。電話機と、黒い液晶のタッチパネルがぽつんと置かれているだけだ。 デスクの奥には、金属性のセキュリティゲートが立ち塞がり、行く手を阻んでいる。「お姉さん、さっきのカード、どこにあるの」 ポケットから、銀色の縁取りが施された黒いカードを取り出した。指先が触れると、やはりあの、指の皮膚を直接冷やすような嫌な冷たさがある。 ゲートの横にある読み取り機に、そのカードの表面をそっと近づけた。 ピッ、という甲高い電子音が、静まり返ったエントランスホールに鋭く反響する。 直後、金属のバーが音もなく内側へとスライドし、ゲートが開いた。「……歓迎されてるみた
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第210話 研究施設への招待状④

 心の中で呟くが、答えは返ってこない。ただ、繋がったままの手首の奥が、チリチリと熱を持つように疼くだけだった。 チーン、という澄んだ電子音が鳴り、ステンレスの扉が左右へ開いた。 ◇ そこは、地上のビルとは完全に隔離された、異質な空間だった。 通路の両側は、すべて継ぎ目のない真っ白な強化ガラスの壁で覆われ、天井からは影を作らない特殊な面発光の照明が、部屋全体を均一に照らし出している。 空気は驚くほど軽かった。 埃の一粒すら存在しない、完璧にコントロールされた完全な無菌状態。 都会の悪意や欲望が蓄積したあの瘴気とは、完全な対極にある空間。なのに、その軽すぎる空気を吸い込むたびに、喉がツンと痛み、呼吸の仕方が分からなくなるような、奇妙な息苦しさが胸を圧迫してくる。「……変な感じ。空気が軽すぎて、自分の肺がどこにあるのか分からなくなりそう」 白亜が首元を細い指先で弄りながら、不快げに呟いた。「これが、科学と魔術を融合させた、あの男の領域なんですね」 一歩、進むごとに、壁のガラスに自分のコートのグレーの影が、ぼんやりと映り込んでは後ろへと流れていく。 通路の先には、円形の大きな実験室のような部屋が広がっていた。 部屋の中央には、複雑な配線と、透明なガラスの管がいくつも絡み合った、見たこともない巨大な金属製の装置が鎮座している。その装置の周囲には、いくつものモニターが並び、緑色の波形や複雑な数字の列が、絶え間なく明滅を繰り返していた。 そして、その装置のすぐ横、白い長机の上に置かれた顕微鏡を覗き込んでいた影が、私たちの足音に気づいてゆっくりと顔を上げた。 仕立ての完璧な真っ白いスーツ。 綺麗に撫でつけられた金糸のような髪。 縁なしの眼鏡の奥で、温度を一切感じさせない薄青い瞳が、こちらを真っ直ぐに捉えた。 ヴィクトル・フォン・フランケンシュタイン。 彼の口元には、あのホテルのラウンジで見せていたのと同じ、彫刻のように崩れることのない、完璧な微笑みが張り付いていた。「ようこそ、ウロボロスの極東支部へ。有栖
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