All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 281 - Chapter 290

290 Chapters

第281話 息もできない世界で、君を選ぶ②

 黎の持つ強大な生命力の熱そのものが、この通路を満たす濃縮された瘴気によって、外側から強制的に奪い取られようとしているのが、密着した肌の表面が急速に熱を失っていく感覚でわかった。 「ノワール、意地を張るのも大概にしなよ。お姉さんを抱えたままじゃ、その減圧状態の空気の重さに耐えきれずに、二人まとめて床に突き崩されるのがオチだよ」  剥がれ落ちたパネルの残骸を硬い靴底で踏み砕きながら、白亜が先頭に立って霧の中へと足を踏み入れた。彼女の白いシルクのドレスの裾は、床を這う黒い泥を吸い込んで重く強張っていたが、アイスブルーの瞳には、同族の無様な変貌に対する焦燥の光が鋭く点灯している。 「白亜ちゃんの言う通りです、黎様。私はもう、自分の足で歩けます。一人で背負わないって、さっき約束したじゃないですか」  見上げる視線に、まっすぐな力を込める。  黎は血走った瞳をどうにか動かし、腕の中の顔を覗き込んできた。  彼の顎の筋肉がギリッと音を立てて硬く引き締まる。数秒の激しい葛藤の後、黎はゆっくりと身体を傾け、私の足の裏を冷たい大理石の床へとそっと下ろした。  一歩、踏み出すと、ドレスのシルクが肌を擦り、胸元に仕舞い込んだおばあ様のロケットの重みが、確かな現実として鎖骨の上を圧迫する。 「……俺から三歩以上離れるな。いや、一ミクロンも離れるな」  黎は立ち上がると、人間としての太く硬い指先を伸ばし、私の右手首をガシッと掴んだ。  熱い。でも、先ほどまでの焼けるような高温ではない。彼自身の内側の炉が、周囲の瘴気によって少しずつ冷やされ、削られようとしているのが、その掌の微かな震えから伝わってくる。 「離れません、黎様」  繋いだ手を力強く握り返し、二人は白亜の背中を追って、地下へと続く金属製の階段へと足を進めた。◇ 鉄の階段を下りるごとに、周囲の空気はさらに一段と重く、粘り気のある臭気を増していった。  カン、カン、という、靴底が鉄板を叩く音が、窓のない狭い階段室に奇妙なくぐもったリズムで反響する。非常灯の赤い明滅が届かない階段の途切れた暗がりは、まるで生き物の食道の中へと滑り込んでいくかのような、異質な圧迫感に満ちていた
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第282話 息もできない世界で、君を選ぶ③

 一歩足を踏み入れた瞬間、脳の奥をズキリと太い針で刺されたような痛みが走り、視界の端が白い霞で埋め尽くされそうになった。 右手首の皮膚の下。浮き上がりかけた薄紫色の管の網の目が、部屋の中央で怪しく発光する巨大な金属製の装置の駆動音に合わせて、生きた虫のようにドクドクと激しく跳ね始める。 部屋の真ん中に鎮座していたのは、ヴィクトルが研究所からこの船の底へと移設した、あの複雑な配線と透明なガラス管が絡み合った抽出装置の『心臓部』だった。 ガラス管の内部では、淡い青色の液体ではなく、ドス黒い、真っ黒な重油のような液体がシュワシュワと猛烈な勢いで気泡を立てて循環している。その装置の上部、白い長机の上に置かれた金属製のケースの内部には、あの写真に写っていた、すずらんの細工が施された『もう一つのロケット(器)』が、青白い光の檻の中に張り付けられて鎮座していた。 ジジ、ジジジジジッ! ケースを囲むランプが、赤と青の不吉な光をめちゃくちゃに明滅させている。ヴィクトルの姿はどこにもなかった。けれど、彼が逃げ際に最後の悪意だけをここへ残していったことは、その狂ったような光だけで痛いほど伝わってきた。「……あいつ、本当に自分の完璧な世界を再現するためだけに、この船全体の澱みをあの偽物の器に流し込んでいきおったな」 白亜が長机の前に立ち、鋭く湾曲した白い鱗の鉤爪を構えて、装置の配線を力任せに引き千切ろうとした。 パシィィンッ! しかし、指先が配線に触れる直前、ケースの表面から放たれた強烈な青白い光の障壁。白亜の鉤爪はその表面と激突し、激しい火花を散らして彼女の身体を数メートル後ろへと弾き飛ばした。「くっ、あ……っ。ダメだ、ノワール! この部屋全体が、竜の熱を奪うための冷たい圧で満たされてる! 私の冷気でも、この内側からの吸い上げを完全には押さえ込めない!」 白亜は床に着地すると、不快げに肩をよじり、白い鱗が皮膚を突き破って浮き上がる首筋を細い指先で強く押さえた。 周囲の壁から押し寄せる見えない圧力が、部屋全体の空気の分子を凝固させ、生き物の体温や息遣いを根こそぎ奪い取ろうとする。
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第283話 息もできない世界で、君を選ぶ④

 このままでは、あの人が壊れてしまう。最恐と恐れられ、何千年も孤独に世界の高みから人間を見下してきたはずの黒竜が、私のために、こんな船の底で自分の肉体をズタズタにされながら息を止めようとしている。 有栖川の屋敷での長年の日々。お父様から「無能」と責め立てられ、ただ息を潜めて嵐が過ぎ去るのを待っていた、あの受け身の自分。誰かの役に立たなければ捨てられるという恐怖から、いつも他人の顔色ばかりを窺っていた。 (……そんなの、もう絶対に嫌だ) 繋いだままの手のひらに、力を込める。 黎の、血に濡れた顔がゆっくりと持ち上がり、その縦に割れた黄金の瞳孔が、真っ直ぐにこちらを見つめ返した。瞳の奥にあるのは、自らの肉体が崩壊していくことへの恐怖などではない。ただ、私が装置の光に吸い尽くされようとしていることに対する、狂気的なまでの焦燥と執着だけ。「触れ……ろ、瀬理亜……っ」 喉から、かすれきった声音が漏れる。「俺の、この肺の痛みを……お前の力で、吸い取ってくれ……。お前が消えるくらいなら、俺のこの命など……っ」「吸い取りません、黎様」 はっきりと、声に出して拒絶した。 黎の目が見開かれた。「なぜだ……! お前は俺の命綱だろう! 俺の呼吸を楽にするための、呼吸を保つためのフィルターでは……っ」「私は、あなたを救うための道具じゃありません!」 私は、黎の大きな掌を両手で下から包み込むように握りしめ、彼の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。「私が、黎様を楽にしてあげたいと思うのは、役に立つ便利な道具だからじゃなくて……。私が、あなたの隣にいたいから、自分の意思でそう決めたからです。だから、一人で澱みを背負い込んで、薪みたいに燃え尽きたりしません!」 黎の喉仏が、大きく上下に動く。「お前が……浄化できなくなっても、いい」
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第284話 息もできない世界で、君を選ぶ⑤

 私は愛されていい。 何の取り柄もない、有栖川の出来損ないだった私という存在を、この大きな漆黒の存在が、ただ私だからという理由だけで、すべてを受け入れて求めてくれている。「……私も、黎様がいいです」 胸元に隠していた、あのおばあ様の銀のロケットを、左手で強く掴み取った。 金属の冷たい表面に指の腹を押し当てると、再びあの、極小の歯車が噛み合うような微細な残響が鳴り響き始める。「白亜ちゃん! 風を! 流れを私に貸してください!」 叫ぶのと同時に、両手を身体の前へとゆっくりと持ち上げた。「合点承知! 人間の計算の限界を、力任せにひっくり返してあげるよ!」 白亜の喉から、氷河が削れるような澄んだ咆哮が漏れ出た。彼女の背中から、衣服を突き破って真っ白な光の粒子で編み上げられた巨大な翼の輪郭が広がり、彼女の両手から放たれたオゾンの冷たい気配が、床を這うようにして、部屋全体の澱んだ空気の流れを外側から強引に押し回し始める。 その冷気の奔流が、私の指先へと一気に収束してくるのを感じていた。 右手首の薄紫色の管が、激しい熱を持って脈打つ。 けれど、それは生命力を吸い取られる時のあの激痛ではなかった。白亜の持つ清浄な空気の流れと、おばあ様がロケットに遺してくれた古い北の術式の旋律が、私の魂の回路を通り抜けることで、何万倍もの鋭い白光のメスへと姿を変えていく。 一人で澱みを背負い込むのではない。 これは、誰かに必要とされるために命を差し出す力ではない。黎様と同じ場所で息をしていくために、私が選び直した力だ。 場の空気を循環させ、流れそのものを変えて、外の海へと逃がす。 タン、タロ、タン――。 頭の中で鳴り響く、あの静かな、けれど揺るぎないアルペジオの旋律に合わせて、翳した両手の十本の指先を、目に見えない鍵盤の上で叩きつけるように激しく動かした。 指先から放たれた透明な白光の粒子が、押し寄せる冷たい波を正面から押し返し、ガラス管の中の真っ黒な重油のような液体へとまっすぐ突き刺さる。 ジジ、ジジジジジッ!!! 配線の隙間から、青白い火
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第285話 息もできない世界で、君を選ぶ⑥

 それと同時に、四方の壁から身体を引き剥がそうとしていた吸引の波が、糸を切られたように途絶えた。 部屋を重く満たしていた濃縮瘴気の匂いも、白亜の冷気と私の光の循環によって、船底の吸気口へと一気に吸い出され、跡形もなく消え去っていった。 あとに残されたのは、雨上がりの森のような、ひどく澄み切った、深い静寂。「……はぁっ、」 黎の喉から、大きな、深い呼気が漏れ出た。 彼を縛り付けていた冷たい圧が、仕掛けの崩壊とともに消え去ったのだ。 黎の広い胸元が、深く、本当に深く、船底に戻った澄み切った空気を肺の奥底まで吸い込んでいく。厚い胸元が鋼のように膨らむたび、首筋から頬を覆っていた漆黒の鱗は、皮膚の下へとほどけるように消えていった。 黎の呼吸から、あの痛々しい喘鳴が、完全に消え失せていた。 深く落ち着いた鼓動が、船底の静けさにゆっくり戻ってくる。 黎は床についた掌に力を込め、ゆっくりと、その百九十センチを超える巨体を立ち上げた。「……瀬理亜」 地鳴りのように低い声。けれど、そこにはもう、今朝のあの閉ざされた扉の冷たさは微塵も残っていない。ただ、自分の大切な最愛を、二度と手放さないという、狂おしいほどの熱がその響きの中に満ち満ちていた。 私は、ウールコートのポケットの中で、本物の祖母のロケットの表面を指の腹でそっとなぞった。 手首の薄紫色の管は、もう跳ねていない。指先の感覚も戻っている。身体の内側に、自分の体温がしっかり残っているのがわかった。 命を、削っていない。 一人で背負わなかったから、私は自分の命を削らずに、黎様の呼吸を守ることができた。必要とされるためではなく、隣で一緒に息をするために、この力を選び直せたのだ。「あーあ。ほんっと、私の上質なドレスが油まみれで台無し。お姉さん、あとで絶対、あの六本木のタワマンにある高級なプリン、十五個じゃ足りないからね。二十個は奢ってもらうからね」 白亜はひっくり返った金属ケースに腰を下ろすと、ドレスの裾についた黒い油を、つまらなそうに指先ではたいた。口を尖らせる彼女の横顔を
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第286話 エピローグ・黒竜様の愛しい呼吸①

 初夏の柔らかな風が、半分だけ開け放たれたパノラマウィンドウの隙間から、カーテンの薄いシルクをふわりと押し上げて忍び込んできた。 窓の外には、抜けるような青空の下、東京のビル群が陽光を反射してキラキラと眩しく輝いている。かつては冷たい硝子の壁で完全に遮断されていたあの天に最も近い部屋に、今は街路樹の青葉のみずみずしい匂いや、遠くを走る車の微かな排気音といった、生々しい人間の世界の営みが心地よい熱を持って流れ込んでいた。 大理石の床には、鏡面のような白さを和らげるように、生成りの柔らかなラグが何枚も敷き詰められている。その上には、丸みを帯びた木製の小さな椅子がいくつか並び、先ほどまで部屋を満たしていた賑やかな気配の余韻を留めていた。 タン、タロ、タン――。 リビングの中央、一番日当たりの良い場所に鎮座する巨大な黒いグランドピアノから、小さな、けれど弾むようなアルペジオの旋律が零れ落ちる。 真っ白な象牙の鍵盤の上を滑るように動く十本の指先。右手の中指の腹をそっとなぞってみても、あの不快な痺れや薄紫色の管の脈動は、もうどこにも見当たらなかった。「瀬理亜先生、ここの指の動かし方、これで合ってる」 椅子のすぐ横から、つぶらな瞳をした小さな男の子が、鍵盤を指差しながら見上げてきた。有栖川の家を出て、あの豪華客船での夜会から数ヶ月。六本木のペントハウスの片隅で、近所の子供たちを集めて始めた、ごく小さなピアノ教室の日常のひとコマ。「ええ、完璧。指の力をほんの少し抜いて、鍵盤の底を優しく撫でるようにしてみてね」 男の子の小さな手に、自分の掌をそっと重ねた。 触れた皮膚から伝わってくるのは、子供特有の生温かい、少し汗ばんだ体温。かつて誰かの顔色ばかりを窺い、役割を果たさなければ捨てられると怯えていた頃の冷たさは、もうどこにも残っていない。自分の好きな音を、自分の意思で誰かに伝えることができる。その確かな手応えが、心のいちばん柔らかい場所を、じんわりと温かい熱で満たしてくれていた。「わあ、本当に綺麗な音が鳴った! じゃあね、先生、また来週!」 男の子は嬉しそうに椅子から飛び降りると、小さなリュックを揺らしながら、玄関の方へと大股で走っていっ
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第287話 エピローグ・黒竜様の愛しい呼吸②

 ペントハウスのリビングは、すっかり陽が傾き始め、オレンジ色の淡い夕暮れの影に沈み込みつつあった。 キッチンカウンターの前に立ち、ボウルの中に新鮮なコーヒー豆をパラパラと投入する。ハサミでクラフト紙の袋を切った瞬間、深く焙煎された芳醇な苦味が湯気のように弾け、室内の空気を一気にビターな香りで満たしていった。 引き出しからペーパーフィルターを取り出し、陶器のドリッパーに慎重にセットする。お湯を注ぐと、シューッという微かな音とともに、ふっくらとドーム状に粉が膨らみ始めた。 背中越しに、ずしりとした質量を持った「気配」が近づいてくるのがわかった。 足音は驚くほど小さい。けれど、彼の内側から放たれる強い熱波が、空調の冷風を完全に相殺して、背中の皮膚をじわじわと伝わってくる。「……終わったか。あの騒がしい人間の子供どもが、ようやく俺の城から消え失せたな」 頭の上から降ってきたのは、心底不機嫌そうな、けれどどこか子供のように強張った低い声。 振り返ると、黎がキッチンカウンターの端に寄りかかり、太く硬い腕を胸の前で固く組んで立っていた。仕立ての完璧な漆黒のシャツの襟元は少し開けられ、そこからは、人間のそれへと完全に回帰した太い首筋が見えている。 長い銀髪はいつものように無造作に流され、その奥で光る黄金色の瞳は、こちらの手元を落ち着かなさそうに追っていた。「騒がしくなんてありません。みんな、すごく一生懸命に練習してきたんですよ」 二つの真っ白なマグカップに、熱いコーヒーを注ぎ分ける。「俺にとっては同じだ。お前が俺以外のもののために指先を動かし、あの小さな肉体に体温を分け与えていること自体が不快でたまらん。空気が薄くなる」 黎はフンと鼻を鳴らし、組んでいた腕を解いて、ローテーブルの方へと大股で歩いていった。椅子に深く腰を下ろすと、長い脚を無造作に投げ出す。黒いスラックスの生地が張り詰め、規格外の筋肉の起伏が夕暮れの光の中に晒された。 トレイを両手で持ち、ダイニングテーブルへと歩み寄る。彼の目の前に、砂糖を山盛りに三杯投入し、ミルクを並々と注ぎ込んで白茶色になったマグカップをそっと置いた。
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第288話 エピローグ・黒竜様の愛しい呼吸③

「……おい、瀬理亜」 不意に、黎の口から紡がれたのは、ひどく低く、熱を帯びた響きだった。 初めて私の名前を呼んだあの夜から、数ヶ月。今ではもう、息をするのと同じくらい自然に、その音節が彼の唇から滑らかに零れ落ちる。「なんですか、黎様」「手を出せ。皮膚がまた冷えているのではないか」 黎は半分空になったカップをテーブルに置くと、大きな掌を伸ばし、私の右手首をガシッと掴んだ。 熱い。でも、出会った頃のあの骨を砕かんばかりの暴力的な力加減はどこにもなかった。ただ、目の前にある最愛が、自分の知らないところで壊れてしまうのを恐れる、ひどく臆病なほどの慎重さが、その掌の厚みから伝わってくる。「冷えていません。さっきまでピアノを弾いていましたから、むしろ温かいです」 繋いだ手を彼自身のシャツの胸元、心臓の真上あたりへと引き寄せ、ピタリと押し当てられた。 ヒヤリとした金属のような異物感は、もうどこにも残っていない。禍々しい黒い鱗の群れも、すべて皮膚の下へと溶けるようにして消え去り、そこにあるのは、皮膚の奥まで届く確かな熱と、岩盤を打つような力強い鼓動の地鳴りだけだった。「……吸い取らんな」 黎が、黄金の瞳を限界まで細め、繋いだ手元を食い入るように見つめた。「ええ。言ったでしょう。一人で背負わなければ、命は削られないんです。白亜ちゃんの空気の流れを借りて、場の淀みを外へ逃がす方法を、私はもう知っていますから。……だから、もう二度と、黎様のために自分の命を薪みたいに燃やし尽くしたりしません」 まっすぐに、その琥珀色の瞳を見つめ返す。 黎の目の奥で、様々な感情が激しく渦巻き、やがて一つの、どうしようもないほどの熱い光へと収束していくのがわかった。「……浄化できなくなっても、いいと言ったはずだ」 黎の大きな右手が、こちらの頬を包み込んだ。 ごつごつとした指の関節から伝わってくる、確かな人間の皮膚の質感と、愛おしいものの温度。「お前が俺のこの肺の痛みを癒やしてくれな
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第289話 エピローグ・黒竜様の愛しい呼吸④

◇「ただいまー! ねえ、聞いてよノワール、下のエレベーターのセキュリティ、また設定変えたでしょ!」 突如として、玄関ホールから鈴を転がすようなクリアな声が響き渡った。 バタン、と重厚な金属扉が開く音。 リビングへと足早に上がり込んできたのは、月の光を紡いだような白い髪を揺らす少女だった。白亜は真っ白なシルクのドレスの裾を軽快に翻しながら、アイスブルーの瞳を輝かせて、一直線にキッチンの巨大な冷蔵庫の前へと陣取った。「ブラン。貴様、なぜ毎日我が物顔で俺のテリトリーに侵入してくる。今すぐその白い翼を根こそぎ引っこ抜いてバルコニーから放り投げるぞ」 黎が不機嫌そうにソファから立ち上がり、巨大な影となって背後から睨みつける。「嫌だもんねー。私はお姉さんにプリンの在庫確認を頼まれてる正当な管理人。ほら、約束通り、今日の分の特製カスタードプリン、ちゃんと二十個に増えてるじゃん!」 白亜は冷蔵庫の奥から瓶入りのプリンを両手に抱え込むと、悪びれる様子もなく回転椅子にドカッと座り直し、銀のスプーンを口にくわえてケラケラと笑った。「二十個だと? 瀬理亜、お前、このトカゲにどれだけ資産を貢いでいるんだ。金の無駄だ、明日からあのタワマンの冷蔵庫のロックをすべて変更する」「無駄じゃありません。白亜ちゃんがいてくれたから、あの船の底で流れを変えられたんですから」 私は口角を緩め、黎のシャツの胸元を掴んでいた右手に控えめに力を込めた。「フン。トカゲの分際で、いちいちお前のお人好しな本能に漬け込みおって」 黎は本気で忌々しそうに舌打ちをしたが、それ以上白亜を追い出そうとはしなかった。彼自身も、あの夜会での共闘を経て、この銀髪の来訪者に対して、どこか家族のような不器用な情を抱き始めているのを、その声の端々の柔らかさから読み取ることができた。「はいはい。大型犬の遠吠えは無視して、お姉さん、このメロン味のやつも半分あげるからね!」 白亜は機嫌よくスプーンを動かし、新しいプリンの瓶の蓋をパカッと開けた。 広い、広すぎるペントハウス。 最初は逃げ出せない空っぽの鳥籠だと思っていた、この冷たい黄金の空
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第290話 エピローグ・黒竜様の愛しい呼吸⑤

 黎の手が、私の背中に回され、そっと全体を包み込むようにして引き寄せられた。 高い鼻先が首筋に押し当てられ、長い銀髪が私の肩口にハラリとこぼれ落ちる。シルクのシャツ越しに伝わってくる彼の心音は、信じられないほどゆっくりで、そして力強いリズムを刻んでいた。 スゥーッ、ハァーッ――。 私の匂いを最後の一滴まで肺の奥底に飲み込もうとするような、深く、長い呼吸音。吸い込まれるたびに、彼の胸が鋼のように膨張し、私の頭をさらに強く、あの温かい平熱の皮膚へと押し付けてくる。「……お前がいるから」 耳元で、地鳴りのように低い声が囁かれた。「俺は、この世界で、息がしたいと願ってしまった」 声が、息の通り道のいちばん奥に触れた。「あの日、雨の夜にお前を拾った時は、ただの命綱だと思っていた。お前がいないと息ができないから、だから手元に縛り付けておくだけの、便利な道具だと自分に言い聞かせていた」 黎の長い指先が、私の髪を掬い上げる。慈しむような、ひどく繊細な手つき。「だが、違った。お前が俺の隣で、そんな風に自分の好きな音を鳴らして、一人の人間として笑っているのを見るたびに……俺のこの止まっていたはずの果てしない時間が、初めて意味を持って動き始めるのを感じるんだ。お前という最愛がそばにいるから、だから俺は、この人間の撒き散らす不快な空気の中でも、もっと深く、お前と同じ息を吸いたいと思ってしまった」 目の裏が熱くなり、泣きそうな塊が喉へせり上がってきた。「……ずるいです、そんなことを言われたら」 私は、彼の広い背中に両腕を回し、熱にしがみつくようにして応えた。「私も、黎様と同じ時間を生きて、一緒に感じたいです。……ずっと、あなたの隣で息を吸っていたいです」 黎の喉元で、甘やかな安堵の音が鳴る。 彼は私の身体を、今度は壊れ物を包み込むような慎重さで、さらに深くその腕の中へと閉じ込めた。 窓の外の夕闇は完全に帳を下ろし、東京のネオンが、真っ白な大理石の床に淡く滲んでいた。
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