Semua Bab 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Bab 261 - Bab 270

290 Bab

第261話 歪んだ元婚約者と、偽りの妹⑤

◇「……素晴らしい。実に見事なキャスティングの、喜劇の結末(フィナーレ)だ」 パチン、パチンと、乾いた拍手の音が、ホールの静寂を切り裂いて響き渡った。 人混みの奥から、ゆっくりと歩み出てきた一つの影。 仕立ての完璧な真っ白いスーツ。 綺麗に撫でつけられた金糸のような髪。 縁なしの眼鏡の奥で、温度を一切感じさせない薄青い瞳が、こちらを真っ直ぐに捉えていた。 ヴィクトル・フォン・フランケンシュタイン。 彼の唇には、あの影を消し去られた実験室での同じ、彫刻のように崩れることのない、完璧な微笑みが張り付いていた。「有栖川瀬理亜さん。あなたのその人間らしい情緒の爆発、実に美しい。……ですが、その揺れこそが、私の仕掛けを最も強く目覚めさせるための、最高の呼び水なのですよ」 ヴィクトルは眼鏡のブリッジを長い指先でそっと直すと、長机の端にある、見たこともない小さな黒いスイッチを、滑らかに押し込んだ。 ピッ、ピッ、ピッ――。 突如として、豪華客船「レヴィアサン」のメインホール全体の照明が、不気味な静電気を帯びたように一斉に青白く明滅し始めた。 ウィィィィンという、鼓膜を直接針で刺すような凄まじい高音の駆動音が、大理石の床を伝って足の裏へと這い上がってくる。「な……、何だ、この音は!?」 有栖川宗隆が、折れたステッキの残骸を握りしめたまま、狼狽した声を上げた。 ホールの巨大なパノラマウィンドウの向こう、東京湾の夜の海が、船体の底から響く異常な振動に合わせて、激しく水しぶきを上げて波立ち始める。 空気の密度が、急激に、物理的な重さを持って変化していくのがわかった。 足元の大理石の床の裏側で、隠されていた仕掛けが一斉に目覚めた。目に見えない冷たい波が、床下から這い上がるようにして、こちらの足首へまとわりついてくる。「さあ、夜会の第二幕を始めましょう。瀬理亜さん、あなたのその魂の芯に根ざした力を、この船の底にある『もう一つの器』へと、移させてもらいましょうか」 ヴ
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第262話 奪われかけた光①

 ピッ、ピッ、ピッ、という、等間隔の電子音が、それまでホールの高い天井を埋め尽くしていたきらびやかな談笑の余韻を、容赦なく切り裂いて響き渡った。 幾百ものクリスタルが連なっていたシャンデリアの黄金色の輝きが、不意に掻き消された。代わりに室内へ溢れ出したのは、まるで手術室の天井を思わせる、青白く無機質な光だった。光が変わるたびに、大理石の床の上に並ぶ人々の顔が、血の気を失った土人形のように不気味に浮かび上がる。 ウィィィィン――。 船体の底、分厚い鉄板のさらに奥深くから、骨組み全体を激しく摩擦させるような凄まじい高音の駆動音が這い上がってきた。足の裏から伝わる細かな、けれど強烈な振動が、大理石の床を通してふくらはぎ、太もも、そして腰の骨へと、じりじりと痺れるような感覚を伝えてくる。「……っ、う、あ」 ミッドナイトブルーのシルクドレスの裾を掴む指先が、急激に強張った。 右手首の皮膚の下。昨夜、黎が綺麗に焼き切ってくれたはずのあの血管のような薄紫色の網の目が、装置の回転速度の上昇に呼応するようにして、熱を持ったようにドクドクと激しい脈動を刻み始めている。 空気の密度が、物理的な質量を伴って変化していくのがわかった。完璧にコントロールされていたはずのホールの空気が、一瞬にして軽くなり、埃の一粒すら存在しない完全な無菌状態へと強制的に塗り替えられていく。なのに、その軽すぎる空気を吸い込むたびに、喉がツンと痛み、呼吸の仕方がわからなくなるような息苦しさが胸を圧迫した。「瀬理亜、そこから動くな。俺の後ろにいろと――」 タキシードの袖口から覗く、黎の太く硬い指先が、こちらの二の腕を保護するように引き込もうとした、その直後だった。 バツンッ! 空気が内側から弾けたような、重たい破裂音。 黎の硬い革靴の先、磨き上げられた大理石の継ぎ目から、どろりとした黒紫色の靄が連続して噴き出してきた。それは有栖川のあの地下牢の底、あるいは奈落の奥深くに溜まっていた、人間の悪意や強欲を濃縮したあの煤の匂いそのものだった。「……が、はっ、げほォッ……っ!」
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第263話 奪われかけた光②

 手を伸ばそうとしたが、二人の間に、目に見えない厚い壁が正面から突如として立ち塞がった。 空気が凍りついたのではない。ヴィクトルが展開した、対竜種用の特殊な減圧シールド。黎の身体から立ち上る炉心のような熱気そのものが、その見えない障壁によって外側から強制的に奪い取られ、床下の装置の中へと吸い込まれていくのが、触れ合おうとした指先の空気の冷たさでわかった。「おやおや。私の仕掛けの効果は、想像以上のようだ」 ヴィクトルは真っ白なスーツの襟元を長い指先で軽く整えながら、こちらの苦しみを観察していた。縁なしの眼鏡の奥の薄青い瞳には、恐怖も哀れみもなく、ただ実験結果を待つ冷たい好奇心だけが浮かんでいる。「この船『レヴィアサン』は、あなたの放つその規格外の力を受け止めるためだけに調整してあります。これ以上暴れれば暴れるほど、彼女から力を奪う速度が上がるだけですよ、御影黎さん」◇「ちょっと、白スーツ! 私の目の前で、勝手に私が気に入ったお姉さんを絞り取ろうなんて、いい度胸じゃない!」 激しい風切り音とともに、銀色の長い髪がメインホールのきらびやかな空間を裂いた。 白亜が床を強く蹴り、ヴィクトルの立つカウンターの向こう側へと、弾丸のような速度で飛びかかっていく。彼女の両腕はすでに完全に白い鱗に覆われ、黒曜石のように鋭い鉤爪が、ヴィクトルの顔面を狙って容赦なく振り下ろされた。 ギィィィィンッ!!! 耳の奥を直接針で刺すような、金属同士が激しく摩擦する甲高い高音がホールの真ん中に爆発する。 ヴィクトルが懐から引き抜いた小さな金属製の筒から放たれた、青白い光の障壁。その表面に白亜の爪が深く食い込み、そこから激しい青い火花が幾重にも弾け飛んだ。「ほう、流石は白竜の血筋。この減圧状態の中でも、それだけの質量を維持できるとは。非常に興味深い耐久性だ」 ヴィクトルは障壁を維持したまま、完璧な左右対称の微笑みを崩さずに、長い指先でコントロールパネルの別のダイヤルを滑らかに回した。「ですが、無駄な抵抗はやめなさい。ここは人間の知性が作り上げた、命を制御するための終着駅だ」 バツンッ! 装置の横腹か
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第264話 奪われかけた光③

 ウ、と喉元で短い呻きが漏れ、膝の関節からカクンと力が抜けそうになった。「あら、随分と派手な仕掛けね。お父さん、これならあの生意気な泥棒猫も、二度とうちの敷居を跨げないわね」 部屋の隅、ひっくり返った給仕用のワゴンの陰から、麻里亜の甲高い声が上がった。 彼女はマゼンタピンクのドレスの裾を気にしながら、右手に握りしめていた小さな銀色のアトマイザーを、ヴィクトルの前へと誇らしげに突き出してみせた。「ねえ、ウロボロスの人! 私のこの自作した『浄化の香油』も使ってよ! これ、お姉ちゃんの安っぽい石鹸の匂いなんかより、ずっと理恩様を特別扱いできるんだから!」 麻里亜がアトマイザーの頭をプシュプシュと乱暴に押し込むと、さらに濃厚なバニラとムスクの重たい甘さが、ホールの空気の中に撒き散らされた。 ヴィクトルは画面から目を離すこともなく、ただ一瞥だけを麻里亜に向け、冷酷に口角を吊り上げた。「邪魔ですね。その安っぽい人工物の匂いは、せっかく整えた場を濁らせるだけだ。下がっていなさい、有栖川の不出来な次女殿」「え……? じゃ、邪魔……っ?」 麻里亜は信じられないものを見るように目を丸くし、そのまま床の上にへたり込んだ。他人の注目を集めることでしか自尊心を保てなかった彼女の自慢の武器は、白いスーツの研究者の前では、ただの余計な匂いとしてあしらわれるだけだった。 理恩は、その光景を壁際に背中を預けたまま、組んだ腕の指先で、ズキズキと痛む眉間を強く押さえ込んでいた。 彼の青い眼球は、限界まで血走ったまま、黎の障壁の向こう側でのたうち回ろうとしている姿を、歪な安堵の色を湛えて見つめている。「……これでいい。瀬理亜、お前はやはり、俺の部屋の隅で大人しくお茶を淹れているのがお似合いなんだ。あの怪物の力など、獅子王の繁栄の裏で使わせてもらえばいいだけのことだ」 理恩の口角が、傲慢な打算のままに吊り上がる。失った便利な環境調整機能を取り戻せるという幻想に、彼はすでに酔い痴れていた。◇「さあ、お喋りはここまでです、瀬理亜さん」
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第265話 奪われかけた光④

 大理石の床を強く踏み締め、一歩、後ろへと足を引こうとした。 しかし、直後、右手首の薄紫色の管が、火をつけられたように熱く、激しく脈打ち始めた。「――あ、ぐ、っ……!」 膝の関節から強制的に力が抜け、大理石の床へと両膝を突き崩された。 身体の内側から、温かい熱の塊がストローで一気に外へと吸い上げられていくような、圧倒的な枯渇感。視界の端が急速に黒く波打ち、呼吸の仕方がわからなくなる。 手首の管が、ステージの上のピアノに向かって、目に見えない強力な磁石に引かれるようにして、強引に引っ張られていくのがわかった。 衣服の擦れる嫌な音を立てて、身体が床の上を滑るようにして前へと進まされる。自分の意志とは関係なく、足が勝手に階段を上り、ピアノの前の椅子へと座らされた。 目の前に広がる、真っ白な象牙の鍵盤と、漆黒の黒鍵の完璧な列。 それは、あの六本木のペントハウスで、黎が私自身の「好きなもの」を見て、ただそれを取り戻すために贈ってくれた、あの温かい黒いピアノとは、全く違う物質だった。 ここにあるのは、影を消し去られた真っ白な部屋と同じ、血の通わない標本を縛り付けるための、美しくも重い鎖としての楽器。「さあ、弾くのです」 ヴィクトルの滑らかな声が、耳元へと降ってきた。 拒もうとして、両手を膝の上で固く握りしめようとした。 けれど、右手首の薄紫色の管が、装置の回転速度の上昇に合わせて激しく跳ね上がり、十本の指先が、強引に鍵盤の上へと押し当てられた。 スッ、と。 程よい重みを持った鍵盤が沈み込む。 ポーン――。 澄み切った、けれどひどく冷たい音が、広いメインホールに響き渡った。 直後、手のひらと鍵盤の接触面から、シュワシュワと微かな炭酸が弾けるような感覚が広がる。 けれど、それはあのペントハウスで弾いた時の、自分が生きているという安心感の音ではなかった。 弾けば弾くほど、指の腹から、魂の根底にある清浄な力の奔流が根こそぎ吸い上げられ、床下の細い管のネットワークを通って、船底のあの「もう一つの器」へと、強制的に注ぎ込
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第266話 奪われかけた光⑤

 視界が急激に真っ白な霞で埋め尽くされそうになり、目からポロポロと生理的な涙がこぼれ落ちて、鍵盤の表面を濡らしていく。 道具として消費される恐怖。 どれほど自分の名前を呼ばれても、最後にはこうして、役割の中にすべてをすり潰されて消えていくのだという、圧倒的な絶望感が足元からじわじわと這い上がってきた。◇「離……れる、な、と言っただろう……っ!」 障壁の向こう側、崩れ落ちた天井の残骸の真ん中で、黎の低く掠れた叫び声が響いた。 彼は両手を大理石の床に突き、這いつくばるような姿勢のまま、濁った血を何度も床へと吐き出している。彼の身体から立ち上る熱気が、周囲の見えないシールドに押さえつけられ、黒い煤となってパラパラと灰になって消えていく。 黎は、自分の肉体がどれほど瘴気に焼かれようとも、その強固な意志の力だけで、私をこの白い檻から連れ戻そうと、一センチメートルずつ身体を前へと進めていた。 けれど、私が鍵盤を叩くたびに、奪われた力が船底へ流れ込み、黎を縛り付ける圧迫感はさらに重さを増していく。「素晴らしい! 回収の速度は、すでに限界値を突破しているぞ!」 ヴィクトルはモニターの前で、初めて完璧だった微笑みの表面を醜く歪ませ、長い指先をタッチパネルの上で激しく彷徨わせていた。「エレノアの回路が、完全に満たされていく……。瀬理亜さん、あなたのその魂の熱こそが、失われた歯車を動かすための、最高の燃料だ!」 視界が、急速に白く染まっていく。 指先からゆっくりと感覚が失われ、十本の指の輪郭が、二重にぶれて見え始めていた。身体の奥底の芯が、完全に灰色の消し炭になって崩れ落ちる寸前の、圧倒的な枯渇感。 (……お祖母様。私は、やっぱり、ただの使い捨ての電池だったのですか……) 心の中で呟くが、答えは返ってこない。 脳の奥がズキズキと痛み、もう次の和音を押し込む力すら、指の関節には残されていなかった。 演奏が、途切れかける。 直後
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第267話 祖母の旋律と、母の名誉①

 チリ……、チリ、チリチリ――。 ミッドナイトブルーのシルクドレスの胸元。肌に直接触れているあの銀のロケットの奥底から、極小の歯車が噛み合い、錆びついたゼンマイが半世紀ぶりに弾けたかのような、微細な金属の摩擦音が這い上がってきた。 その振動は、鎖骨の細い骨を小刻みに震わせ、そこから首筋、背骨、そして象牙の鍵盤へと押し当てられていた十本の指の腹へと、波紋のようにじわじわと伝わっていく。 指先から伝わっていたあの生命力の芯をストローで一気に吸い上げられるような枯渇感が、その奇妙な残響が鳴り響くたびに、ピタリと動きを止めた。「……ん?」 長机の前に立つヴィクトルが、眼鏡の奥の薄青い瞳を怪訝そうに細めた。 ヴィクトルの目の前で、整然としていたはずの数値の流れが大きく乱れ始めた。彼の白い頬から、初めてわずかな血の気が引いていく。「回収の流れに、未知の旋律が混じっている……。瀬理亜さん、あなたのその魂は、一体どこからこれほどの力を引き寄せているのです」 ヴィクトルは完璧な左右対称の微笑みを唇の端から消し去ると、長い指先をタッチパネルの上で激しく滑らせた。 しかし、ピッ、ピッ、ピッというあの規則正しかった電子音は、次第に音程を狂わせ、ついにはプツンという不気味な断線音とともに完全に沈黙した。 直後。 ガガッ……、ジジジジジッ! メインホールの壁一面に設置されていた巨大な表示板が、一斉に激しい砂嵐で埋め尽くされた。青白い明滅が止まり、ホールの空間全体が、夕暮れのような薄暗い影の底へと沈み込んでいく。『――いいかい、宗隆さん。このすずらんのブローチはね、ただの飾りじゃないんだよ』 突然、ホールの高品質なサラウンドスピーカーから、ひどくしわがれてはいるけれど、凛とした気品を湛えた老婦人の声が、大音量で響き渡った。 その響きが鼓膜を震わせた瞬間、お腹の底がカッと熱くなった。 おばあ様だ。 かつて北の山奥の古い社で、節くれだった温かい手で私の頭を撫でてくれた、あの母方の祖母
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第268話 祖母の旋律と、母の名誉②

『フン、役立たずの病弱な女め。家の繁栄のための燃料になれるのなら、本望だろう。本家の血筋だか何だか知らないが、そんな気味の悪い因習ばかり大事にしおって。……死ぬなら死ぬで、早く次の資産(瀬理亜)にその役割を引き継がせればいいだけのことだ』 息を、呑んだ。 ホールの中に集まっていた、きらびやかなタキシードやイブニングドレス姿の招待客たちが、一斉にざわめき始めた。グラスを動かす手が止まり、お互いの顔を見合わせながら、ひそひそと探るような視線が有栖川の家族へと集中していく。「な……、何だこれは! 誰がこんな悪質な悪戯を……ッ!」 有栖川宗隆の顔から、余裕の表情が完全に消え失せた。 首筋に青筋を何本も浮き出させ、血走った目をギョロギョロと動かしながら、彼は右手に握りしめていた折れたステッキの残骸を、大理石の床へと無様に落とした。ガチャン、と真鍮の細工が硬い音を立てて転がる。「あなた! 早くその不快な音を止めなさいよ! 有栖川の名誉が丸潰れじゃないの!」 隣では、継母がシルクのドレスの裾を両手で強く掴み、顔を引き攣らせて悲鳴を上げていた。彼女が完璧に整えていたはずの夜会巻きの髪は、恐怖の冷や汗で無惨に解け落ち、首筋にべったりと張り付いている。 実の母を「病弱な役立たず」と蔑み、その命をすり潰して手に入れた財産で虚栄の城を築いてきた人間たちの、あまりにも無様な化けの皮の剥がれ落ちる瞬間。「嘘よ……、嘘に決まってるわ! お姉ちゃんが宝石を盗んだから、だから追い出されたのよ! 私の方が、有栖川の本当のお嬢様なのに……っ!」 麻里亜は床の上に尻餅をついたまま、右手に握りしめていた銀のアトマイザーを指先で強く押し込み続けた。プシュプシュという虚しい音が響くたび、バニラとムスクの重たい香水の匂いが周囲に撒き散らされるが、ホールの淀んだ空気の底に沈む彼らの醜い本性を覆い隠すことは、もう誰にもできなかった。 理恩は、壁際に背中を預けたまま、力なく垂れた右手の指先を見つめていた。 完璧だったはずの営業スマイル
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第269話 祖母の旋律と、母の名誉③

◇ チーン、という、ロケットの内部で最後の小さなバネが外れたような音が鳴った。 次の瞬間、胸元に仕舞い込まれていた本物の銀のロケットの蓋が、パカッと音を立てて内側から開き、そこから目に見えない澄み切った「流れ」が一気にホールの空間へと解き放たれた。 それは、有栖川の寄生具が放っていたあのドロドロとした冷たさではない。 むせ返るような緑と、湿った土の匂いに支配された、あの北の果てにある『竜の森』の、深い霧の匂い。 頭の中に、ずっと忘れていた、短いけれど力強いアルペジオの旋律が鮮明に浮かび上がってきた。 おばあ様が、節くれだった温かい手で私の小さな手を引きながら、あの社の奥で教えてくれた、本当の循環の音楽。 (……一人で背負うから、命が足りなくなるんだ) 私はゆっくりと息を吸い込んだ。 肺の奥まで、限界まで空気を満たす。都会の悪意が蓄積したあの瘴気の匂いを、自分自身の内側で燃やすのではなく、場の空気の流れを循環させて外へと逃がすための、本当の力の使い方の輪郭が、指先の確かな手応えとして脳髄に届いた。 両手を鍵盤の上に下ろす。 十本の指先が、象牙色の白鍵と黒鍵の列に吸い付くようにして馴染んでいく。 タン、タロ、タン――。 静かな、けれど確かな意思を持った旋律が、ピアノの響板を伝ってホール全体へと力強く響き渡った。 それは、ヴィクトルの機械に操られて奏でていたあの冷たい音色ではなかった。 自分の感情を。母の名誉を。 私を「便利な道具」として消費しようとしてきたすべての悪意に対して、「私はここにいる」とはっきりと宣言するための、私自身の声としての音楽。 和音を叩きつけるたびに、右手首の皮膚の下でドクドクと跳ねていた薄紫色の管が、装置の吸引の波を正面から強引に押し返し、元の薄いピンク色の肌へとスルスルと戻っていくのがわかった。「バカな……っ、回収が止まった? それどころか、船底の器そのものが、彼女の音に引きずられている……!」 ヴィクトルはモニターの前で、初めて
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第270話 祖母の旋律と、母の名誉④

 ピアノの重厚な低音がホールの腹の底に響き渡り、きらびやかな高音が、天井の明滅を繰り返すシャンデリアを微かに震わせる。 その清らかな音色の波が、障壁の向こう側で這いつくばっていた黎の耳の奥へと届いた。「……瀬理亜」 地鳴りのように低い声。けれど、その声音には、もう先ほどまでののたうち回るような苦しみは残っていなかった。 黎の広い胸元が、深く、本当に深く、私の放った澄み切った空気を肺の奥底まで貪るように吸い込んでいく。 吸い込むたびに、彼の逞しい腕の筋肉が鋼のように膨張し、首筋から頬を覆っていた漆黒の鱗が、皮膚の下へと溶けるようにして消え去っていった。鋭く湾曲していた両手の鉤爪も、人間としての太く硬い指先へと回帰していく。 黎の呼吸から、あの痛々しい気管の狭窄音が、嘘のように完全に消え失せていた。 岩盤の奥で鳴るような、重く、力強い鼓動のリズムが、再び彼の上下する胸に合わせて規則正しく響き始める。 黎は床についた掌に力を込め、ゆっくりと、その百九十センチを超える巨体を起こした。 乱れた銀髪の隙間から覗く黄金色の瞳は、完全な覚醒状態を取り戻し、怒りと、それ以上の強い熱を帯びて、真っ直ぐにヴィクトルの立つカウンターの方へと向けられた。「いいね、お姉さん! その調子! 人間の計算なんて、私たちの時間の長さに比べたら、ただの消しゴムのカスみたいなものだって、思い知らせてあげなよ!」 飾り柱の陰から、白亜が凍りついていたコートの袖をバリバリときしませながら、勢いよく立ち上がった。彼女のアイスブルーの瞳の奥で、何百年も生きる竜種としての鋭い光が宿る。 白亜の両腕から放たれたオゾンの冷たい気配が、床を這うようにして広がり、部屋を満たしていた濃縮瘴気のねっとりとした粘り気を、外側から強引に押し流していく。 私は、自分の足で、このステージの上のピアノの前にしっかりと立ち上がり、両手を前へと強く突き出した。「私は、誰の道具でもない!!」 最後の和音を、全体重を乗せるようにして鍵盤の上へと叩きつける。 ピキィィィィンッ!!! 次の瞬間、黎の身体を四方から閉
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