《追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません》全部章節:第 251 章 - 第 260 章

290 章節

第251話 嘘をつかない口付け③

「それはダメですって、さっきも言いました」 重ねられた彼の手の甲を、左手で上からぎゅっと握りしめた。黎の皮膚の熱が、冷え切っていた指先を心地よく溶かしていく。「黎様。私は、有栖川の屋敷にいた頃、毎日ただお父様たちの顔色を窺って、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできませんでした。理恩様に婚約破棄を突きつけられた時も、地下室に閉じ込められた時も、ただ誰かがドアを開けてくれるのを待っているだけの、中身の空っぽな人形でしかなかったんです」 ゆっくりと、一文字ずつに自分の意志を込めて伝える。「でも、ここで黎様に出会って、不器用な優しさに触れて、私は初めて、自分の名前を呼ばれて生きる意味を知りました。……だから、もう逃げたくないんです」「逃げるのではない。俺がお前を守るために、あの船ごと――」「守ってもらうのを、ただ待っているだけなら、私はあの地下室にいた頃と何一つ変わりません」 黎の言葉を、まっすぐな視線で正面から遮った。「お母様の命を食い潰し、私の力を搾取しようとしていたあの家と、本当の意味で決別するために。……私は、私の足であの船に乗ります。お父様たちの前に立って、『私はもうあなたたちの道具じゃない』って、はっきりと私の言葉で突きつけたいんです。それが、私の過去への落とし前ですから」 黎は何も言わなかった。 ただ、繋がれた彼の手のひらが、恐怖か焦燥か、あるいはそれ以上の激しい熱を帯びて、小刻みに震え始めるのが伝わってくる。「……お前を、あの不浄な男の前に立たせたくない」 黎の太い喉仏が、大きく上下に動いた。「あいつはお前を『便利な土台』と呼び、自分の生存のために再び所有しようとしている。そのねっとりとした欲の匂いが、お前に一ミリでも近づくこと自体が、俺の腹の底を狂いそうにさせるんだ。お前が俺の視界から一瞬でも消えれば、俺は……自分の本能を抑えきれずに、あの船を沈めてしまうかもしれない」「消えません。三歩以上、離れないって約束しましたから」 悪戯っぽく微笑み、彼の手を強く握り返す。
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第252話 嘘をつかない口付け④

◇ 黎は掴んでいた手を離すと、ゆっくりとこちらの頬へと大きな両手を伸ばしてきた。 肌を刺す熱。指の腹が、冷え切っていた皮膚の表面にそっと触れ、じわりと体温を落としていく。「……瀬理亜」 名前を呼ばれるたびに、喉の奥の細い管が、キュッと甘く締め付けられる。 黎の整いすぎた顔が近づき、眼前に彼の黄金色の瞳が迫った。「俺はお前に、かつて嘘をついた。『お前はただの酸素マスクだ』と。……お前を損なわせたくないからと、あんな酷い言葉で突き放した」 黎の熱い吐息が、唇の隙間に直接吹きかかってくる。「だが、もう二度と、お前に対して偽りの言葉は使わん。……お前が浄化できなくなろうとも、俺の肺が再び焼け焦げようとも、俺は、お前自身の名前を呼び続ける」 次の瞬間、叩きつける冬の夜風の冷たさとは完全な対極にある、焼け付くような熱い唇が、重なり合った。「ん……、っ……」 それは、出会った夜のあの暴力的な息の強奪ではなかった。有栖川の裏庭で、理性を飛ばした猛獣が食らいつくような、恐怖を強いる口付けではない。 ただ、自分の大切な宝物を、この世の何よりも慈しむように、慎重に、優しく、何度も唇の輪郭をなぞるような、嘘のない温度の証明。 滑らかで、驚くほど水分を含んだ黎の唇が、閉じたままの唇を甘噛みするように優しく押し開けてくる。 開いた隙間から、彼特有の焦げたスパイスの匂いと、濃厚な高体温が口腔の奥深くまで滑り込んでくる。雨上がりの森のような清らかな感覚が、彼自身の熱と混ざり合い、静かな水音を立てて粘膜同士が擦れ合った。 息が、苦しいはずなのに、どうしようもなく甘い。 黎の両腕が、背中と腰に深く回り込み、隙間を完全に埋めるようにしてきつく抱きしめられた。シャツの生地が擦れる微かな音が、リビングの静寂に響く。 彼の広い胸の中で鳴り響く、ドクン、ドクンという力強い心音。人間のそれよりもはるかに遅く、地鳴りのように重いリズムが、自分の早鐘のような鼓動と完全に
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第253話 豪華客船、淀んだ夜会①

 東京湾の埠頭に吹き荒れる冬の潮風は、塩辛い湿気を含んで、グレーのウールコートの襟元から容赦なく忍び込んできた。 波飛沫がコンクリートの岸壁を叩くたびに、ザザン、と重い水音が周囲の暗がりに響き渡る。夜の海は、街灯の乏しい光を照り返して鈍い鉄色にうねり、巨大な生き物の背中みたいに不気味に上下を繰り返していた。 その岸壁に横付けされているのは、天を衝くほど巨大な豪華客船「レヴィアサン」の白い船体だった。幾百もの丸い客室窓から漏れ出るきらびやかな黄金色の光が、うねる海面に長い光の筋を幾本も落としている。「……寒い」 ウールコートのポケットの奥で、両手をぎゅっと握りしめた。指の腹に触れる、祖母の形見の銀のロケット。その真鍮の冷たさが、肋骨の内側にある細い管をキチリと震わせるような緊張感を運んでくる。「寒いか。機能が低下する前に、さっさとその貧弱な身体をあの鉄の箱の中へ滑り込ませろ」 すぐ隣から、地鳴りのように低い声が降ってきた。 歩幅を合わせるようにして、半歩後ろに佇む漆黒のシルエット。黎は、仕立ての完璧なタキシードの襟元を長い指先で軽く整えながら、鋭い黄金の瞳で巨大な船体を睨みつけていた。彼から放たれる、人間離れした高い体温が、触れ合う肩越しにジリジリと伝わってくる。「離れません。三歩以内って、約束しましたから」 見上げると、黎の眉間の皺がほんの少しだけ和らぐのが見えた。「当然だ。一秒でも俺の視界から消えてみろ。その瞬間に、この港一帯をまとめて東京湾の底へ沈めてやるからな」「もう、すぐに物騒なことを言わないでください」 エスコートされるようにして、繋がれた手のひらの熱を確かめながら、乗船口へと続く長いスロープへと一歩を踏み出した。「わあ、すごい! あの船、中からすっごく上質なバターと砂糖の匂いが漂ってきてる! ローストビーフの脂の匂いも混ざってるね。最高!」 黎の斜め後ろ、タラップの手前で、月の光を紡いだような白い髪がふわりと揺れた。白亜は、今回の夜会のために黎のクローゼットから勝手に引っ張り出してきたという、真っ白なシルクのロングドレスの裾を軽快に翻しながら、アイスブルー
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第254話 豪華客船、淀んだ夜会②

 船内へと一歩足を踏み入れた瞬間、埠頭の冷たい潮風は完全に遮断され、代わりにむせ返るような暖房の熱気と、華やかな人いきれが全身を包み込んだ。 エントランスロビーの床はすべて鏡面のように磨かれた大理石で覆われ、天井からは幾重にも重なったクリスタルのシャンデリアが、眩いばかりの黄金色の光を放っている。中央の広大な階段を上り下りする人々は、誰もが煌びやかなタキシードやイブニングドレスに身を包み、手にしたクリスタルグラスのシャンパンを揺らしながら、高い声で談笑を交わしていた。 けれど、そのきらびやかな空間を進むほどに、皮膚の表面がピリピリとするような、奇妙な静電気の粘り気が強くなっていくのがわかった。 (……変な感じ。空気が、妙に重い……?) コートをクロークへ預け、黎が吟味したミッドナイトブルーのシルクドレスの裾を気にしながら、周囲を見回す。 露出が極限まで抑えられた、首元まで隠れるクラシカルなデザイン。けれど、シルクの滑らかな布地が歩くたびに肌を擦り、胸元に仕舞い込んだロケットの重みが、確かな現実として鎖骨の上を圧迫している。 ふと、グレーのコートのポケットから移し替えていた、自分のスマートフォンを取り出して画面を確認した。 液晶画面の右上の表示。アンテナのマークは完全に消え去り、無機質な白文字で『圏外』とだけ表示されている。「……電波が、入っていません」 隣を歩く巨体に向かって、小声で告げた。「当然だ。あの白スーツの男が、この船全体に何らかの遮蔽結界を張り巡らせているのだろう。外から助けを呼ばせず、この鉄の箱の中でお前を追い込むための仕掛けだ」 黎は腕を深く組んだまま、地鳴りのように低い声で呟いた。彼の黄金の瞳孔は、針のように細く収縮し、すれ違う人々を冷酷に値踏みするように射抜いている。「ノワール、それだけじゃないよ。ほら、足元から、あの有栖川の地下にあったのと同じ、人間の強欲を煮詰めたような嫌な匂いがじわじわと這い上がってきてる」 白亜が、ロビーの隅に置かれていた細長の飾り壺の表面を指先でコツコツと叩いた。カチン、カチンとい
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第255話 豪華客船、淀んだ夜会③

 黎が、繋いだままの指先に、ぎゅっと力を込めてきたからだ。「……俺から三歩以上離れるな。何があろうと、俺の身体から離れるな」 耳元で囁かれる、低い、けれど焼けつくほど熱い吐息。「ええ。わかっています、黎様」 見返した横顔の、その彫刻のように硬く強張った顎のラインを見つめ、繋いだ手を力強く握り返した。◇ 夜会の中央メインホールへと続く、重厚なマホガニーの両開きドアが開け放たれた。 正面に広がっていたのは、数百平米はあろうかという、天井の高い広大なパーティー会場だった。壁一面の巨大なガラス窓の向こうには、遠ざかる東京の臨海副都心の夜景が、光の帯となってきらめいている。 会場内には、細長いビュッフェカウンターが何列も並び、大粒のキャビアやローストビーフ、色とりどりのマカロンが所狭しとディスプレイされていた。「わあ……! あのイチゴのムース、すっごく綺麗! ノワール、私、ちょっとあっちの端っこまで偵察に行ってきていい?」 白亜はアイスブルーの瞳を限界まで輝かせ、すでに視線をスイーツのコーナーへと完全にロックさせている。「勝手にしろ。ただし、俺たちの周囲の邪魔になるような動きをすれば、その細い首ごと東京湾に放り込むからな」「はいはい。大型犬の遠吠えは無視して、お姉さん、あとで美味しいケーキ持ってきてあげるからね!」 白亜は弾むような足取りで、人混みの隙間を縫うようにして、足早にビュッフェ台の方へと去っていった。 一人と一匹になった空間。 黎は私の腰に大きな掌をそっと添え、周囲のきらびやかな人々を威圧するような足取りで、ホールの壁際へと歩みを進めた。彼が一歩を踏み出すたびに、周囲にいた着物姿の婦人やタキシードの男たちが、本能的な恐怖を感じたかのように、モーセの十戒のように一斉に道を空けていく。 誰も、私たちに近づこうとはしない。 けれど、その静まり返った人混みの奥から、突如として、むせ返るような強烈な匂いが漂ってきた。 人工的なダマスクローズの香りに、ムスクやバニラの重い甘さが幾重にもブレンドされ
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第256話 豪華客船、淀んだ夜会④

 継母の赤い唇から、毒を吐き出すような冷たい声が漏れる。 何も変わっていない。私を家の繁栄のための雑用係として扱い、最後には雨の中に放り出した、あの家族の悪意そのままだ。 けれど、私の目を釘付けにしたのは、その二人の背後に立っていた、残りの二人の姿だった。 鮮やかなマゼンタピンクのノースリーブワンピースに身を包んだ、妹の麻里亜。今日の彼女の顔は、雨でドロドロに溶けていたあの夜の惨状とは違い、プロのメイクによって完璧に飾り立てられていた。 しかし、その細い指先には、小さな銀色のアトマイザーが握られており、彼女の全身から発せられる香水の匂いは、ホールの空気を物理的に歪ませるほどに濃かった。 そして、麻里亜の華奢な肩を庇うようにして隣に立っていた、オーダーメイドのネイビースーツの男。 獅子王理恩。 彼を見た瞬間、胸の奥の古い傷跡が、微かにキチリと嫌な音を立てて引き締まるのを感じた。 理恩の整った顔立ちは、かつての完璧な御曹司のそれとは明らかに異なっていた。目の下には酷い隈の影が落ち、首の付け根から両肩にかけて、まるで見えない泥の塊でも背負わされているかのように、不自然に前傾している。 だが、彼の青い眼球は、限界まで血走ったまま、真っ直ぐにこちらを捉えて離さなかった。 その目には、婚約破棄を突きつけた夜のあの嫌悪や侮蔑の色は、もう一ミリも浮かんでいない。 そこにあるのは、失った完璧な土台、自分を落ち着かせてくれる「都合のいい支え」を何が何でも取り戻そうとする、狂気的なまでの打算と、粘り気のある執着の熱だった。 理恩は、麻里亜の掴んでいた腕を無造作に振り払うと、硬い革靴のヒールで大理石の床をジャリッと鳴らしながら、こちらに向かって迷いのない足取りで距離を詰め始めた。「……瀬理亜」 喉から這い出てきたような、低く、熱に浮かされたような聲音。「やっと見つけたぞ。こんな薄汚い船の底まで、お前を連れ戻しに来てやったんだ」 理恩が一歩、また一歩と、ホールの人混みを割って近づいてくる。 彼から放たれる、生温かい、汗ばんだ人間の息。それが空調の冷風に乗って
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第257話 歪んだ元婚約者と、偽りの妹①

 ネイビースーツの袖口から伸びた、白く細い五本の指先が、空気を微かに擦るような乾いた音を立てて目の前に迫った。 理恩の指先は、手加減というものを完全に忘れたかのように強張っており、その爪の生え際は恐怖と焦燥の汗で薄く湿っている。 その指先がミッドナイトブルーのシルクドレスの胸元に触れるよりも早く、半歩、機械的に後ろへと身を引いた。滑らかなシルクの裾が、鏡面のように磨き上げられた大理石の床の上でさらりと滑り、静かな弧を描く。 直後、眼前に津波のような圧倒的な質量が滑り込んできた。 黎の広い胸元が、理恩の伸ばした腕を正面から完全に遮断する。タキシードの上質なウール生地が擦れる重い音が響き、それまでホールを満たしていた生温かい人いきれが、黎の内側から滲み出す人間離れした高い体温によって一瞬にしてじりじりと焦がされるように押し流された。「……人間の分際で、誰の所有物に触れようとしている」 地鳴りのように低い声。 黎の喉から這い出てきた声音は、ホールのきらびやかなBGMを物理的な音圧で圧殺するようにして響いた。彼の黄金の瞳孔が、針のように極限まで細められ、理恩の血走った眼球を真っ直ぐに射抜く。「くっ……、あ、が……っ」 理恩の喉から、ひきつけを起こしたような短い喘鳴が漏れた。 黎がただそこに直立し、見下ろしているだけで、周囲の空気が一段沈むような錯覚が走る。理恩の硬い革靴の先から、大理石の床に向かって、ミシリ、ミシリと目に見えない霜が広がるかのように、彼のネイビースーツの肩のラインがガタガタと小刻みな震えを刻み始めた。 (……今更どの口が、私を連れ戻すなんて言うのだろう) 胸の中で、冷めた乾いた笑いが込み上げてきた。 有栖川の屋敷の応接室で、常に他人の顔色ばかりを窺っていた頃なら、この完璧主義の男に腕を掴まれただけで、息の仕方がわからなくなって床に這いつくばっていたはずだ。彼が有栖川の当主と結託し、空っぽのジュエリーボックスをベッドの下から引っ張り出させたあの婚約パーティーの夜。社交界のすべての人間から嘲笑
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第258話 歪んだ元婚約者と、偽りの妹②

 麻里亜が、雨水を吸って重くなったドレスの裾を引きずるようにして、二人の間へと割って入ってきたのだ。綺麗に巻かれていたはずのブラウンの髪は、湿気と焦燥の汗で束になり、首筋にべったりと張り付いている。「お姉ちゃん! あんた、どうしてそんな高級なドレスを着て、そんな凄そうな男の隣で偉そうにしてるのよ! 有栖川の本当のお嬢様は、この私なのよ! 理恩の隣に立つべきなのも、私なの!」 麻里亜は喉が裂けそうなほどの甲高い金切り声を上げながら、右手に握りしめていた小さな銀色のアトマイザーを、ワナワナと震える指先で強く握りしめた。 彼女の全身から立ち上る、バニラとムスクの重たく甘ったるい香水の匂いが、ホールの生温かい空気と混ざり合い、強烈な悪臭となって鼻腔を殴りつける。「麻里亜、うるさいぞ。少し黙っていろ」 理恩は、麻里亜の掴みかかろうとした手を露骨に嫌悪を込めて振り払った。彼の青い瞳は、目の前の妹を完全に通り越し、黎の背中の後ろに隠れるようにして立つ私の姿だけを、飢えた猛獣のような鋭さで凝視し続けている。「スーツが汚れる。君のその見当違いの喚き声は、本当に頭に響くんだ」「汚れ……っ? 理恩、今私に向かって、見当違いって言ったの!? 信じられない! 私を誰だと思ってるのよ!」 麻里亜の顔面が、プロのメイクによって完璧に飾り立てられていたはずの肌の裏側から、嫉妬と劣等感で赤黒く膨れ上がっていく。 周囲のテーブルの客たちが、何事かとクリスタルグラスを動かす手を止め、こちらをチラチラと値踏みするように見つめ始めた。 有栖川宗隆は、その泥沼の口論から一歩引いた位置で、長い指先で咥えた葉巻の灰を、床の大理石へと無造作に払い落とした。彼の濁った眼窩には、娘が傷つけられていることへの怒りなど微塵もなく、ただ黎という圧倒的な資金力を持つ存在を、有栖川の財産としてどう組み込むかという、醜い打算の光だけが澱んでいた。「理恩くんの言う通りだ、麻里亜。少し口を慎みなさい。……それよりも、瀬理亜」 有栖川宗隆が、太い腹を突き出しながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。革靴の底が床を叩くたびに、古い石材が擦れるよ
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第259話 歪んだ元婚約者と、偽りの妹③

 有栖川宗隆の言葉には、反省の色のカケラも存在しなかった。かつて黎に圧倒され、大理石の床に這いつくばってのたうち回っていたはずなのに、それを「私という道具を介して利用できる資産」と見直した途端、すぐに家長としての尊大な態度を取り戻そうとしている。 どこまでも自分を中心に世界が回っていると信じて疑わない、哀れなまでの強欲。「……お二人とも、本当に何も分かっていないのですね」 ミッドナイトブルーのシルクドレスの裾を片手で軽く掴み、一歩、前へと踏み出した。 床を踏み締める靴の裏で、大理石の冷たさが確かな現実として伝わってくる。「何だと? 瀬理亜、お前、名門有栖川の当主に向かって、何という口の利き方だ。育ててやった恩を忘れ、分をわきまえん売女めが!」 有栖川宗隆の顔が、怒りでみるみるうちに赤黒く染まっていく。首筋に青筋を立て、目を血走らせて怒鳴り散らすその姿。 かつての私なら、この声を聞いただけで床にひざまずき、耳を塞いで嵐が過ぎ去るのを待っていただろう。生きるために、自分の尊厳をすべて削り落として。 けれど、今の私は違う。「私は、有栖川のサンドバッグでもなければ、あなたたちの世界を飾るための便利な家具でもありません」 はっきりと、一文字ずつを噛み砕くようにして言い放った。 ホール全体の喧騒が、一瞬にして遠くへ押しやられたかのような、静かな、けれど絶対的な拒絶のトーン。「瀬理亜……っ、強がるな!」 理恩が、さらに半歩、距離を縮めてきた。彼のネイビースーツの胸元からは、麻里亜の香水と彼の体臭が混ざった生温かい熱気が、顔面を無遠慮に殴りつけてくる。「お前みたいな自己主張のない地味な女が、一人で生きていけるわけがないんだ。俺は、お前の有用性を再評価してやると言っているんだ。俺の隣に戻り、完璧な獅子王の妻としての役割を果たせ。お前は、俺の生活の『土台』として必要なんだよ!」「土台、ですか」 私は、冷淡な視線で理恩の血走った青い瞳を見つめ返した。「お二人とも、私のことなんて最初から一ミリも見つめていない。…&
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第260話 歪んだ元婚約者と、偽りの妹④

 有栖川宗隆が、太い拳を固く握りしめ、目を怒らせて一歩前に出ようとした。 瞬間、背後の空気が、物理的な重さを持って急激に膨れ上がった。 黎の長い腕が前に滑り込み、今にも有栖川宗隆の首筋をその硬い指先で消し去らんばかりに鋭く動く。彼の黄金の瞳孔が針のように細まり、首筋の黒い鱗が皮膚の下からびっしりと浮き上がりかけていた。「黎様、ダメです」 私は、前に出かかった黎の手首を、自分の掌でしっかりと掴み、押し留めた。 触れた皮膚から伝わってくる、黎の荒ぶる強い熱量。彼は信じられないものを見るような目で、掴まれた手首と、こちらの顔を交互に見つめた。「瀬理亜、お前……また俺を止めるのか。こいつらは、お前を道具としてしか……」「わかっています。だから、私の言葉で終わらせるんです」 まっすぐに、その黄金色の瞳を見つめ返す。 黎の喉から、グルルと低い不満の息が漏れた。けれど、彼は掴まれた手首の力を徐々に抜き、私の半歩後ろへと静かに身体を引き込んだ。 自分の破壊衝動よりも、こちらの意思を最優先にしてくれる。その不器用な労わりが、背中に確かな盾を与えてくれる。「麻里亜もそうです」 向き直り、床の上に立ち尽くす妹の顔を正面から捉えた。「あなたは、お姉ちゃんからすべてを奪って勝ったと証明したいだけ。理恩さんの隣を歩くアクセサリーとして、自分が一番特別に扱われたいから、だから私に嘘の罪を着せて雨の中に放り出した」「な、何よそれ! あんたが宝石を盗んだのは事実でしょ!」「嘘を重ねるのはやめなさい。お父様も、理恩様も、最初から私が盗んでいないことくらい分かっていて、あのチープな三文芝居に乗ったのよ。用済みになった長女を体よく処分するために」 麻里亜の目が、初めて見る私の毅然とした態度に、怯えたように大きく見開かれた。「私はもう、あなたたちの虚栄の城を飾るための部品には戻りません。感謝して這いつくばれだなんて、お断りします。……もう私の人生に、二度と入ってこないでください」 言い切った直後、ホールの空
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