All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 271 - Chapter 280

290 Chapters

第271話 黒竜の降臨と、止める手①

 パシィィィン、と硬いガラスの張力が限界を迎えて弾け飛ぶ甲高い破砕音が、薄暗い影の底に沈んだメインホールに爆発した。 ヴィクトルが展開していたあの見えない障壁の表面に、蜘蛛の巣のように亀裂が走った。それが一瞬にして無数の光の粒子となって四方へと吹き飛び、大理石の床へキラキラと降り注ぐ。 空気の層が強引に引き裂かれたような、強烈な爆風がホール内を吹き抜けた。 ピアノの椅子の上で、ミッドナイトブルーのシルクドレスの裾が激しく煽られ、バサバサと乾いた音を立てる。額に張り付いていた濡れた前髪が風に押し上げられ、剥き出しになった皮膚に、埠頭から流れ込む冬の冷気がべっとりと張り付いた。 ウィィィィンというあの床下からの金属疲労の絶叫は、シールドの崩壊と同時にプツンと完全に途絶えた。 あとに残されたのは、豪華客船レヴィアサンの船体そのものが、波のうねりを受けてギシギシと不気味にきしむ重い摩擦音だけ。「……は、あ」 鍵盤の上から両手をゆっくりと引き剥がし、自らの胸元へと持っていった。 衣服の布地越しに伝わってくる、祖母の形見の銀のロケットの熱。先ほどまでゼンマイが弾けるように震えていたあの金属の塊は、今は凪いだ水面のように静まり返り、手のひらの冷たさをじわじわと吸い上げている。 右手首の皮膚の下。薄紫色に変色して浮き上がっていたあの管の網の目は、完全に鳴りを潜め、元の薄いピンク色の肌へと滑らかに回帰していた。指先から手首にかけて広がっていた、生命力を根こそぎ吸い上げられるような強烈な枯渇感は、もうどこにも残っていない。 ジャリ。 ホールの入り口、崩れ落ちた天井の残骸の真ん中から、硬い革靴の底がガラスの粒子を踏みしめる重い音が響いた。 その音が一つ鳴るたびに、周囲の空気の温度が、物理的な熱量を持って急激に跳ね上がっていくのがわかった。 黎が、ゆっくりとその百九十センチを超える巨体を垂直に立ち上げていた。 雨水をたっぷりと吸い込んで重くなったタキシードが、引き締まった筋肉の起伏にべったりと張り付いている。引き千切られたシャツの襟元からは、人間のそれへと滑らかに回帰した太い首筋が見え、そこ
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第272話 黒竜の降臨と、止める手②

 地鳴りのように低い声。けれど、その音色には、先ほどまでののたうち回るような苦しみは微塵も残っていなかった。ただ、自分の腕の中から消え失せてしまった宝物を、二度と他者に触れさせないという、狂おしいほどの熱がその響きの中に満ち満ちていた。◇「バカな……。竜を封じるための障壁が、力で押し破られたというのか」 長机の前に立つヴィクトルが、初めて完璧だった微笑みの表面を醜く歪ませた。 滑らかに動いていたはずの長い指先が、信じられないものに触れたかのように、不自然に硬直している。「エレノアの歯車が、冷えていく……。私の計算が、なぜ、このような人間のちっぽけな情緒に崩されるなど……っ!」 ヴィクトルの上質な白いスーツの胸元には、デバイスの隙間から激しく弾け飛んだ青白い静電気の火花がいくつも突き刺さり、プラスチックの焦げるような嫌な匂いが漂い始めていた。「理恩様……、どういうことなのよ、これ! あの気味の悪い男、また起き上がってきたじゃない!」 給仕用のワゴンの陰で、麻里亜が金切り声を上げた。 彼女はマゼンタピンクのドレスの裾を両手で強く掴みながら、床の上に尻餅をついたまま、無様に後ろ退りしている。プロのメイクによって完璧に飾り立てられていたはずの顔面は、恐怖の冷や汗でドロドロに溶け出し、目の下を真っ黒に汚していた。「早く警察を呼んでよ! あんな化け物、今すぐこの船から叩き出さなきゃ、私、殺されちゃうわよ!」 麻里亜が右手に握りしめていた小さな銀色のアトマイザー。それが指先の震えに耐えかねて、床の大理石の上へとカランと軽い音を立てて転がり落ちた。中から漏れ出たバニラとムスクの重たい香水の匂いが、ホールの生温かい空気と混ざり合い、ひどく不快な刺激となって鼻腔を塞ぐ。 理恩は壁際に背中を預け、右手の指先を茫然と見下ろしていた。 作り物めいた営業スマイルは完全に剥がれ落ち、額から流れる冷や汗が顎の線を濡らしている。「有栖川の繁栄が……ただの搾取の残骸だったというのか。俺
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第273話 黒竜の降臨と、止める手③

◇ ジャリ、ジャリ。 黎が、もう一歩、室内へと足を踏み入れる。 彼の硬い革靴の底が、散らばったガラスの粒子を容赦なく踏み砕くたびに、キチ、キチと不快な音が部屋に響く。 一歩、進むごとに、黎の周囲の空気が、物理的な質量を持って、部屋全体を上から押し潰そうとしているのがわかった。 黎の身体から立ち上る熱気が、周囲の澱んだ空気を微かに焦がし、白い壁面にピキピキと細かい亀裂を走らせる。彼の逞しい腕の筋肉は、見えない鎖を無理やり引き千切ろうとするかのように、破れそうなほどの密度で隆起していた。「……瀬理亜を、そこから下ろせ」 地鳴りのように低い声。 黎の右手の指先が、ゆっくりと持ち上げられた。指先は、人間の爪が剥がれ落ち、代わりに鋭く湾曲した、黒曜石のような硬質な鉤爪へと変態し始めている。「あのゴミ共が、お前のその美しい指先に触れようとした。……その不浄な存在ごと、この船も、この海も、すべてを塵の山に変えてやる」 黎の黄金の瞳孔が、怒りのままに周囲のきらびやかな空間を射抜く。 彼の身体から立ち上る強い熱量が、ホールの巨大なパノラマウィンドウの向こう、東京湾の夜の海を激しく波立たせ、船体全体がミシリ、ミシリと嫌な音を立てて大きく傾き始めた。「黎様、ダメです!」 私は、ピアノの前から立ち上がり、ステージの階段を足早に駆け下りた。シルクのドレスの裾が床を擦る音を置き去りにして、真っ直ぐに黎の元へと歩み寄る。 黎の目の前、手を伸ばせば触れられる距離で足を止めると、彼の硬く握り締められた右の手首を、自分の両手で下から包み込むようにして強く掴んだ。 バチィィンッ! 触れた瞬間、激しい静電気の火花が二人の手の間で弾けた。 けれど、その皮膚を通して伝わってくるのは、あの生命力を吸い取られる時の激痛ではなかった。黎の内側に宿る、人間離れした高い体温。「……瀬理亜、お前……また俺を止めるのか」 黎の動きが、ピタリと空中で静止した。 縦に鋭く
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第274話 黒竜の降臨と、止める手④

 まっすぐに、その黄金色の瞳を見つめ返す。「私は、黎様の呼吸になりたい。……でも、それは黎様が誰かを傷つけるための武器になってほしいということじゃありません。私が、私の意思で、あなたの隣で一緒に生きたいと願うから、だからここに立っているんです」 黎の喉から、グルルと低い不満の息が漏れた。 けれど、彼の黄金色の瞳の奥で揺らいでいた暗い破壊の衝動が、見つめ合ううちに、春の陽射しに溶ける雪みたいに、静かに、けれど確実に解けていくのがわかった。「……本当に、勝手な女だ」 黎の声のトーンが、一段階低く、そして重くなった。 掴まれていた彼の手首から、徐々に硬質な筋肉の強張りが抜け、鋭く湾曲していた漆黒の鉤爪が、人間としての太く硬い指先へと滑らかに回帰していく。首筋から頬を覆っていた黒曜石のような鱗も、皮膚の下へと溶けるようにして消え去っていった。「もちろんです。でも、黎様も一緒に来てくれるでしょう?」 私が微笑みながら言うと、黎は黄金色の瞳を丸くして一瞬だけ固まり、やがて、喉元でフッと短く息を吐くような音を立てた。 彼の手が、今度は自分から包み込むようにして、こちらの指先を強く、けれど痛くないようにひどく優しい手つきで握り返してきた。◇「あーあ。やっぱりノワールはお姉さんに弱いなあ。白竜の加護を出すまでもなかったじゃん」 飾り柱の陰から、白亜が凍りつきかけていたドレスの袖を親指ではたきながら、つまらなそうに歩み出てきた。彼女のアイスブルーの瞳には、同族の無様な変貌に対する呆れと、けれどどこか誇らしげな独占欲が混ざり合っている。「白亜、騒ぐな。お前のその呼気が混ざるだけで、ホールの循環が滞る」 黎が不機嫌そうに首だけをそちらに向け、ぶっきらぼうに言い捨てた。「はいはい。用が済んだらすぐトカゲ扱い。ほんっと、恩知らずの黒竜なんだから。……でもさ、あの白スーツの男、まだ往生際悪く何か企んでるみたいだけど?」 白亜の淡い瞳が、長机の陰へと向けられた。 視線の先。 ヴィクトルは、
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第275話 黒竜の降臨と、止める手⑤

 ヴィクトルの薄い唇が、壊れた時計のように細かく震える。「まだ、終わらせない。ウロボロスの技術(ちから)があれば、あの船底の器で、もう一度……」 その一言が沈んだ瞬間、長机の裏側で青白い非常灯が一つだけ不自然に点滅した。壁と同じ色に塗られていた非常用の鋼鉄扉が、音もなく数センチだけ開いている。 ヴィクトルは写真のフレームを胸元へ押し付けるように抱え、よろめきながらその隙間へ身体を滑り込ませた。「逃がさない!」 白亜ちゃんが床を蹴った。けれど、扉の内側から噴き出した黒い霧が、白い髪を巻き込むように広がり、彼女の足を一瞬だけ止める。 バタン、と。 重い鋼鉄扉が閉まり、錠の落ちる鈍い音だけがメインホールの空気に残った。「逃げ足だけは一流だね、あの白スーツ」 白亜ちゃんは悔しそうに爪先で床を叩いた。白い鱗の浮いた指先には、まだ冷気の粒が細かくまとわりついている。「追うか、瀬理亜。お前を傷つけようとしたゴミの分際だ。今すぐその扉ごと船底まで叩き潰して――」 黎様が低い咆哮を漏らした。私を抱きしめる腕に、再び破壊のための力が集まりかける。「……だめです、黎様」 私は彼のシャツの胸元を掴んでいた右手にぎゅっと力を込め、まっすぐに見上げた。「今は、あの人を追いかけるより先に、船底で動き始めた仕掛けを止めましょう。あの人を、もう私たちの中心に置きたくありません」 自分で口にして、肩の力が抜けた。 誰かを罰するためだけに動くのではない。私が帰りたい場所を守るために、私自身の意思で次の一歩を選ぶ。 黎様の黄金色の瞳が、わずかに揺れた。怒りの底にあった暗い破壊の衝動が、見つめ合ううちに、熱を失った煤のように静かに沈んでいく。「……本当に、勝手な女だ」「ええ。逃げません。でも、黎様も一緒に来てくれますよね?」 黎様は一瞬だけ言葉を失い、やがて喉元で短く息を吐いた。私の頬に残っていた涙の跡を、今度は痛くないように、ひどく優しい手つきで拭い取る。「&helli
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第276話 ひざまずく虚栄①

 大理石の細かな継ぎ目からじわりと染み出し始めた真っ黒な液体は、重油のような不気味な粘度を帯びて、白い床の表面をゆっくりと侵食していった。 その黒い泥のような染みからは、ドブ川の底に沈んだヘドロのような、あるいは何かが湿ったまま黒焦げになったような、強烈に澱んだ不快な臭気が立ち上っている。照明の明滅を反射してヌラリと光る液面が広がるたびに、ホールの気温はさらに一段と下がり、吐き出す息が白く強張っていくのがわかった。 黎の分厚い両腕に横抱きにされたまま、胸元にそっと顔を寄せた。 タキシードのウール生地越しに伝わってくる、内側に火を抱えているような平熱。その圧倒的な温もりが、冬の冷気と不快な臭気に晒されかけていた皮膚を、外側から強引に、優しく溶かし続けてくれる。 耳を黎の左胸へと押し当てると、人間のそれよりはるかに遅く、けれど岩盤の奥深くで鳴る地鳴りのような、重く力強い心音がドクン、ドクンと規則正しく響いていた。あの痛々しい気管の狭窄音は、もうどこからも聞こえない。「……瀬理亜。あの生ゴミどもの息の根を、やはりこの場で完全に止めておくべきではないのか。お前を道具として磨り減らそうとしたその指先、一本残らず消し炭にしてやるのは容易いことだぞ」 頭の上から降ってきたのは、心底不機嫌そうな、けれど確かな所有の意思を孕んだ低い声。 黎の黄金色の瞳は、足元でのたうち回る有栖川の人間たちを、汚物でも見るかのように冷酷に見下ろしている。「いいえ、黎様。……正直に言えば、許したくありません。できることなら、あの人たちにも同じだけ苦しんでほしい。でも、あんな人たちのために、あなたの手を汚してほしくないんです。もう十分、終わっていますから」 掴んでいた黎のシャツの胸元に、指先だけで力を込めた。 視線を床へと落とす。 そこには、かつて有栖川の屋敷の頂点で傲慢に振る舞っていた人間たちの、見る影もない無様な姿が転がっていた。 ピピッ、ピピピピピッ――。 突如として、メインホールに集まっていた数百人の招待客たちのポケットや手元から、電子的な通知音が一斉に、けたたましく鳴り響き始めた。
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第277話 ひざまずく虚栄②

 有栖川家が母様や私から生命力を吸い上げ、その裏でどれほど汚い手段を使って財を貪ってきたか。その社会的なすべての不正の記録が、船内の遮蔽されたネットワークの隙間を突いて、一瞬にして全員の端末へと強制拡散されたのだ。「う、嘘だ……。こんなものが、なぜ表に出る……ッ!」 有栖川宗隆は、大理石の床についた両手をガタガタと激しく震わせながら、撒き散らされたガラスの破片の上に額を擦り付けるようにしてのたうち回っていた。 彼が名門の家長として誇示していた黒のオーダーメイドスーツは、床から染み出す黒い油まみれになって白く汚れ、手のひらからは折れたステッキの断面で切った赤黒い血が絨毯へと滴り落ちている。 婿養子としてのコンプレックスを隠すために、必死に築き上げてきた砂上の楼閣。それが、自らの悪意が物質化した黒い泥の中に、音を立てて沈み込んでいく。「あなた! 早くその画面を消させなさいよ! 私の、私の有栖川のブランドが、明日からの社交界の予定が全部めちゃくちゃじゃないの!」 隣では、継母がシルクのガウンの裾を狂ったように振り回し、床の黒い液体を避けるようにしてソファの上へと這い上がろうとしていた。 完璧に固められていたはずの髪は無惨に解け落ち、剥き出しになった首筋には恐怖の冷や汗がびっしりと浮いている。他人の犠牲の上に胡坐をかいて貪ってきた優雅な生活。その虚飾の城の底が、今、完全に踏み抜かれたのだ。◇「お姉様……、お姉様、助けて、お願い……っ!」 バシャッ、と黒い水しぶきを上げて、マゼンタピンクのドレスを泥まみれにした麻里亜が、ステージの階段のふもとで両膝を突き、こちらに向かって必死に両手を伸ばしてきた。 雨でドロドロに溶けていたあの夜の惨状と、今の姿は何も変わらない。プロのメイクは涙と汗で無残に流れ落ち、目の下を真っ黒な黒土のように汚している。「私、悪くないの! 全部お父様とお母様がやったことよ! あの宝石のことも、私はただ、お母様に言われてベッドの下に……っ。だから、理恩様に言って、あの
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第278話 ひざまずく虚栄③

「私は麻里亜よ! 有栖川の、一番愛される次女なのよ!」「その有栖川という看板も、もうどこにも残っていませんよ」 冷えた声が落ちる。麻里亜の喉が、ヒュッと小さく鳴り、言葉を失って床へとへたり込んだ。 理恩は、壁際に背中を預けたまま、ずるずると大理石の床へと腰を突き崩していった。 彼の完璧だったはずのオーダーメイドスーツの裾は、床を這う黒い泥を吸い込んで重く強張っている。「瀬理亜……、俺は、君のその力を……、獅子王の技術(システム)として、正当に管理してやると言っているんだ。あんな得体の知れない化け物の隣にいるより、俺の部屋の隅で、大人しく守られている方が……」 理恩の青い瞳は、限界まで血走ったまま、なおもこちらへ向けて這い寄ろうと長い指先を大理石に立てている。 彼が放つ、生温かい、汗ばんだ打算の息。 私は、黎の手首を掴んだまま、その元婚約者の顔を真っ直ぐに見据えた。「理恩さん。あなたは、私が淹れたお茶の温度も、整理した書類の中身も、一度として見ていませんでした。私、あなたのことが怖かったです。少しだけ、羨ましかったこともあります。完璧な世界を持っている人に見えたから。でも結局、あなたは自分の都合の良い『浄化装置』が手元にあって、自分の世界が完璧に回っているという事実に依存していただけです」 理恩の口角が、不格好に引き攣った。「私がどんなに息苦しくても、どんなに怯えていても、あなたにはどうでもよかった。……そんな血の通っていない打算の檻に、私が自分から戻るわけがないでしょう」「俺は……俺は獅子王の次期総帥だぞ! 君のような身寄りのない女を、誰のおかげで社交界の端に置いてやったと……っ」「その獅子王の名前も、そこに並ぶ裏帳簿のデータが公になれば、明日にはすべて失われる。……理恩さん、これが私の、最後の言葉です」 黎の腕の中で身体を起こし、はっきりと言い放った。「もう私の人生に、二度と入ってこないで
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第279話 ひざまずく虚栄④

 彼女のアイスブルーの瞳は、床に散らばる有栖川の家族たちを一瞥しただけで、すぐに正面のステージの裏側、ヴィクトルが消え去ったあの壁面へと向けられた。「ノワール、お姉さんとの甘い逢瀬(おしゃべり)を楽しんでる暇はないよ。ほら、足元のこの油、さっきからどんどん量が増えて、船全体の復元力を下げる勢いで重くなってる」 白亜の言う通り、大理石の隙間から染み出す黒い液体は、ホールの絨毯を完全に真っ黒に変色させながら、波紋のように外側へと膨張を続けていた。 船体そのものが、ギシギシ、ギギギ……と、腹の底を直接揺さぶるような重低音の脈動を刻み、ゆっくりと、確実に左側へと傾き始めている。「……チッ。あの白スーツの男、逃げ間際に船底の連動装置(リンク)を暴走させおったな」 黎の喉から、殺意の煮詰まった低い咆哮が漏れ出た。 彼の黄金の瞳孔が再び針のように細まり、掴まれていた私の指先を、今度は痛くないようにひどく優しい手つきでそっと引き寄せた。「瀬理亜、ここから地下の機関室へ向かうぞ。あいつが遺していったその『もう一つの器』、手で木端微塵に粉砕して、すべての元栓を完全に閉ざしてやる」「行きます。黎様と一緒に」 黎の白いシャツの胸元を両手で強く掴み、まっすぐにその瞳を見つめ返した。 黎は私の身体を、今度は骨が軋むほどではなく、壊れ物を包み込むような慎重さでしっかりと横抱きに抱え直すと、長い脚で大理石の床を強く踏み締めた。 ジャリ、ジャリ。 砕け散ったガラスの粒子を硬い革靴の底で踏み砕き、二人はメインホールの出口へと向かって、迷いのない足取りで歩みを進める。 背後では、有栖川宗隆が血の滲む両手で絨毯を掻きむしり、麻里亜が黒い泡を立てるアトマイザーを抱え込んだまま、のたうち回り続けていた。 誰も、私たちを呼び止める言葉すら持ち合わせていない。ただ、自らの撒き散らした澱みの底へと、ゆっくり沈んでいく彼らの姿。 ホールの巨大なマホガニーの扉を押し開け、薄暗い裏廊下へと足を踏み入れた、直後だった。 ズズズズズズズッ――。 突然、船体全体の鉄
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第280話 息もできない世界で、君を選ぶ①

 非常灯のプラスチックカバーの奥で、嫌な電気音が途切れ途切れに鳴っていた。 数秒おきに反転する、血のように生々しい赤色と、濃い暗闇の交差。その不規則な明滅が、マホガニーの重厚な廊下の壁面を赤黒く染め上げ、うねる影の輪郭をグニャグニャと不気味に歪めている。 ズズズズズズズッ!!! 船体の底、分厚い鉄板の継ぎ目全体が悲鳴を上げるような凄まじい衝撃音が、再び耳の奥を直接激しく震わせた。 ラグジュアリーな内装が施されていた壁のパネルが次々と剥がれ落ち、大理石の床に激突して大きな音を立てて砕け散る。船体全体が右側へ、さらに数度、重苦しいきしみを立てて大きく傾斜していくのが、黎の逞しい腕の中に抱えられたままでも、斜めに傾いていく視界のせいで嫌というほど伝わってきた。 廊下の奥、地下の機関室へと続くスチール製の細い階段の隙間から噴き出してきたのは、ただの煙ではなかった。 埃の一粒すら存在しない完璧な無菌状態を強引に上書きするようにして、真っ黒な、重油のような粘り気を持った瘴気の霧が、間欠泉のように猛烈な勢いで吹き上がり、通路全体へとのたうち回りながら広がっていく。 鼻腔を突くのは、ドブ川の底から湧き上がるガスのような、あるいは何かが真っ黒に焦げ付いて有害な煙を上げているような、ひどく不快で澱んだ匂い。その臭気が迫るたびに、肋骨の内側の細い管が火をつけられたように熱く、激しく脈打ち始める。「……っ、が、は……ッ!」 頭の上から、押し殺したような、ひどく掠れた悲鳴が漏れ出た。 黎の大きな身体が、前に進もうとした姿勢のまま、一瞬にして石像のように硬直する。タキシードの生地が限界まで引き攣るほどの強い力で、黎は自らの左胸のシャツを強く掻きむしり、太い首筋の筋肉がガタガタと不自然な震えを刻み始めた。 ゼイ、ゼイ、という、引き裂かれた蛇腹の管が擦れ合うような痛々しい喘鳴。気管が完全に狭まり、肺の水分が一瞬で奪われていくかのような乾いた呼吸音が、黎の上下する広い胸元から直接伝わってくる。「黎様! ダメです、私を下ろしてください! これじゃ、黎様の肺が……っ」
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