身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ のすべてのチャプター: チャプター 71 - チャプター 80

120 チャプター

第71話 葛城静司という男③

 葛城静司。  九条。  KMS。  知らない場所で、名前同士がつながっていく。  書斎には、紙と古い木の匂いが混ざっていた。 「朝霧様」  高瀬さんが、声を少し落とした。  高瀬さんは、葛城が持つ資料の種類を事前に開示させ、第三者同席と双方同意の録音が可能な場所で面会すると整理した。後から話を作られないための手順だった。  高瀬さんが入力を始める。  キーボードの音が、書斎に響いた。  その間、律は何も言わなかった。  必要な沈黙もあると、最近少し分かってきた。 「榊さん」 「……どうした」 「九条家のこと、知っていますよね」  高瀬さんの手が止まり、相良さんが盆を持ち直した。  律は、私から目を逸らさなかった。 「知っている」 「今、話せないことですか」 「話せる範囲と、まだ確かめるべき範囲がある」 「便利な言い方ですね。言いたくないことを全部そこへ入れられる」  少し意地の悪い言い方になった。  それでも、引っ込めるつもりはなかった。  律は、わずかに顎を引いた。 「……そうだな」 「否定しないんですか。そこは一応、少しは抵抗して」 「今の言い方は、確かに便利だった」  言い訳をされると思っていたのに、律は嫌味をそのまま受け取った。 「九条家は、古い家だ。金融、医療、不動産、教育。表に出る名前と出ない名前がある。私は榊の当主として、距離を取ってきた」 「距離を取ってきた相手が、如月家の借金と私の過去に関わってるかもしれない」 「関わっている可能性はある」 「それでも、私に全部話さない」  律の手が、肘掛けの上で止まった。 「全部を今ここで出せば、手順を壊す」 「知らないまま待たされるのも、嫌です」  思ったよりはっきりした声が出た。  律はしばらく黙った。  遠くの廊下から、食器の触れ合う音が聞こえた。  律が迷っているのが見えた。  用意した答えではなく、今ここで言葉を選んでいる。  その迷いを待ちたいと思ってしまった。信じたわけではない。ただ、用意した正解ではなく、私に向けた不格好な答えを聞きたかった。  私は腕を組まず、視線だけを返した。急かさない代わりに、逃がすつもりもなかった。  答えが遅いことより、答えを作られる方が嫌だった。私は時計を見ずに待った。
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第72話 葛城静司という男④

「……分かってる」 律の声は低かった。「……ひとつだけ。九条家の中で、私が最も警戒している人物がいる」「誰ですか」「九条康生」 初めて聞く名前だった。 それなのに、なぜか背中の奥が冷えた。 柱時計が、書斎の奥で一つだけ針を進めた。「葛城静司は、その周辺にいた人物だ」「いた、じゃなく、今もいる」「そう見てる」 高瀬さんが送信ボタンを押した。 短い電子音が鳴る。 葛城静司の事務所へ、正式な確認メールが送られた音だった。 私は画面を見つめたまま、唇の内側を噛んだ。 九条康生。 葛城静司。 KMS。 名前ばかりが増えていく。 けれど、不思議と足元が崩れる感じはしなかった。 崩れた場所の上に、ようやく細い線を引いている。そう思えた。「朝霧様」 相良さんが静かに声をかけた。「夜分に失礼いたします。正門の警備から連絡が入りました」「正門?」「朝霧様宛のお荷物が届いております」 私は顔を上げた。「今ですか」「差出人の記載はないとのことです。ただ、宛名は手書きで、朝霧栞様、と」 高瀬さんが椅子を引いた。 律の車椅子が、かすかに前へ動く。相良さんは、すぐに高瀬さんへ視線を向けた。「警備室で開封確認をします。爆発物や危険物じゃないか、外観だけ先に確認を」「お願いします」 言葉は自分の口から出た。 震えてはいなかったと思う。 十分ほどして、高瀬さんが戻ってきた。 手には、薄い灰色の封筒があった。角が少し潰れていて、古い紙の匂いがする。封は糊で閉じられているだけで、差出人欄は空白だった。 表には、見慣れない筆跡で私の名前が書かれていた。 朝霧栞様。 如月ではなく、朝霧。 指を伸ばそうとして、途中で止まった。「開けますか」 高瀬さんが尋ね
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第73話 封筒の中の古い写真①

 紙片の文字は、細かった。 書いた人間の手が震えていたのか、もともとそういう筆跡なのか、判別しづらい。白い机の上に置かれたそれは、古い病院の受付で使う伝票の一部に見えた。端がぎざぎざに破れ、薄いクリーム色の紙は、指で触れたら粉になりそうだった。 古い紙は薄く、端が少し波打っていた。紙を返すたび、古い糊の匂いが指先に移った。 高瀬さんが、私の前に片手を出した。「直接触らない方がいいです」 高瀬さんの手袋が、机の上でかすかに擦れた。「……分かってます」 答えた声が、思ったより小さかった。 分かっている。証拠かもしれないものは、素手で触らない。封筒も紙片も、写真も、誰が送ったものか分からない以上、保管の仕方を間違えれば後で意味をなくす。 そんなことは分かっているのに、目だけが紙片から離れなかった。 ――あなたが生まれた夜のものです。 その一行は、親切な説明ではなかった。 針だった。 机の角に置かれたライトが、古い写真の表面を白く照らしている。ぼやけた廊下。奥に立つ若い女性。顔は判然としない。けれど、目元だけが、どうしても私の中の何かを引っかいた。「栞さん」 律の声で、ようやく息をしていなかったことに気づいた。 顔を上げると、黒い仮面の下の目がこちらを見ていた。いつものように、急かさない。けれど、止めようともしない。「一度、ここで止めてもいい」「止めたら、これが消えるんですか」 自分でも少しきつい言い方だったと思う。 律は目を伏せなかった。「消えない」「なら、見ます」 高瀬さんが短く息を逃がした。反対したいのを、仕事の顔で押し込めたようだった。「では、こちらで撮影と記録を取ります。開封時刻、同席者、内容物の状態。封筒と中身は別々の袋に保管します」「お願いします」 そう言ってから、私は自分の指が膝の上で握り込まれていることに気づいた。爪の先が掌に当たっている。痛いほどではない。けれど、その小さな圧だけが、今ここにいる感覚をつなぎ止めてい
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第74話 封筒の中の古い写真②

「……赤ん坊、ですよね」  分かりきったことを口にした。  封筒の角が、指の腹に跡を残した。  高瀬さんが頷く。 「写真だけで断定はできませんが、新生児の識別バンドに見えます」 「名前は」 「読み取れません」 「読めないんじゃなくて、読ませないようにしてるんですよね」  言い終えると、口の中が乾いた。  律の革手袋の指が、肘掛けの上で一度動いた。 「可能性はある」  律は、声を一段落とした。 「ただ、これが真実だとは限らない」 「罠かもしれない、ですか」 「そうだ」  まっすぐ肯定され、一瞬だけ笑いそうになった。 「こういう時、少しは慰めるものでは」 「慰めてほしいのか」 「分からないです」  正直に言うと、律の目が少し緩んだ。  壊れ物を見る目ではなかった。 「なら、今は慰めない」 「……助かります」  強がりではなかった。  今優しい言葉をかけられたら、その言葉に寄りかかってしまいそうだった。  高瀬さんが写真の右下を拡大した画像をタブレットに表示する。 「識別バンドの施設名らしき文字が、ここにあります。全ては読めませんが、最後の三文字は『産婦人科』に見えます」  タブレットの画面に、粗い拡大画像が映った。  白いバンド。薄い黒文字。潰れた名前欄。端に残った、かすかな施設名。  白沢、に見える。  そのあとに、産婦人科医院。 「白沢産婦人科医院」  私が読み上げると、高瀬さんが手元の端末に入力した。 「公開情報で確認します。現存する医療機関としては……出てきません」 「廃院ですか」 「可能性が高いです。古い法人データベースや自治体の広報記録を当たります。ただ、医療記録そのものを、こちらから勝手に取得することはできません」  勝手には取れない。本人確認や法的な手続きがいる。  それなのに、この写真は私の前にある。  二十四年前の夜を切り取った誰かが、今になって送ってきた。 「葛城静司が送ったんでしょうか」  高瀬さんはすぐに頷かなかった。 「封筒の投函記録だけでは断定できません。葛城本人のメールとタイミングは近いです。ただ、第三者が便乗した可能性もあります」 「でも、あの人は『渡すべきものがある』と書いてた」 「その可能性はある」 「これが、その一つかもしれない」  口の中に
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第75話 封筒の中の古い写真③

 その言葉が、ひどく嫌だった。まるで、ずっと保管していた所有物を、そろそろ持ち主に返してやる、とでも言うような響きだった。 クリアファイルの表面に、天井の蛍光灯が白く筋を引いていた。 写真も紙片も、私より先に私のことを知っているような顔をしている。それが、たまらなく嫌だった。 そう思った瞬間、目の奥が熱くなった。 泣きそうなのではない。怒っているのだと分かった。「栞さん」「言って」「この写真を追うなら、君の出生に関する情報へ触れることになる」「それは、そうでしょうね」「如月家だけでは済まない可能性がある」「もう、如月家だけで済んでいたことの方が少なかった気がします」 口にすると、律が少しだけ息を止めた。 言いすぎたかと思った。でも、取り消す気にはならなかった。 如月家に捨てられた。そう思っていた。 けれど、その前に、私はどこから来たのか。 誰が私を如月家に渡したのか。 この写真の赤ん坊は、本当に私なのか。 もし私なら、名前を潰したのは誰なのか。 問いが一つ増えるたびに、足元の床が薄くなっていく。 その時、車椅子の小さな音がした。 律が、わずかにこちらへ近づいた。肘掛けに置いた手は動かない。けれど、車輪はまっすぐ私の方へ向いている。 距離は、たぶん十センチも変わっていない。 それでも、机の向こうに一人で座っている感じが、少しだけ薄れた。「追うかどうかは、君が決める」「追わない選択肢もあると?」「ある」「榊さんなら、追わないんですか」 初めて、律がすぐに答えなかった。 仮面の縁に、ライトの光が細く乗っている。見えない半分の顔に、何かを隠しているのが分かった。「私なら追う」「なら、どうして聞いたんですか」「私が追うことと、君に追わせることは違う」 その言葉は、少しだけ胸に刺さった。 支配ではない。命令でもない。 でも、優しさの形をしているからこそ、簡単には受け取れな
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第76話 封筒の中の古い写真④

 律の目が、わずかに揺れた。  言葉が届いたのだと分かった。  コピーは新しくても、写っている写真はひどく古かった。  赤ん坊は、何も知らないまま足首に番号を巻かれている。  証拠かもしれない。けれど、生まれたばかりの誰かでもあった。  私は、番号を振られるために生まれたわけではない。  高瀬さんの端末が、小さく鳴った。 「白沢産婦人科医院について、古い自治体広報の記録が残っていました。二十三年前に閉院。その後、建物は別法人に譲渡されています」 「別法人?」  高瀬さんが画面を一度確認し、眉間に浅い皺を寄せた。 「現在の登記上の所有者は、KMSホールディングス関連の資産管理会社です」◇「偶然とは思えません」  高瀬さんは、すぐには否定しなかった。  律が画面を見る。 「この件は、今夜のうちに保全だけする。白沢産婦人科医院の閉院資料、土地の移転履歴、KMS関連会社との関係。確認は公開情報と正式な照会に限る」 「時間がかかりますね」 「かかる」 「その間に、葛城さんは別のものを送ってくるかもしれません」 「その可能性もある」  危ないものを危ないと言われる方が、今は息をしやすかった。  私は写真の端を見た。  二十四年のあいだ、写真はどこか暗い場所にしまわれていたのだろう。  その時間を思うと、腹の奥が熱くなった。 「祖母は」  声が止まった。  静江さんは、何を知ったまま病室にいるのだろう。 「今すぐ病院へ行く必要があるなら、車を出す」 「……今行っても、祖母を問い詰めるだけになります」  言ってから、胸が痛んだ。 「それは、したくないです」  律は頷いた。 「なら、今日は写真を守る」  問い詰めるより先に、残されたものを保全する。  その具体的な言葉に、ようやく肩の力が抜けた。  書斎が静かになった。  KMSは、如月家から不自然な資金が流れていた先だ。  葛城静司が関わり、私の誕生日が記された識別バンドの病院跡地へもつながっている。  私は写真を見下ろした。  名前の読めない白いバンドが、ライトの下にある。  ただの空白ではなく、名前を消した跡に見えた。
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第77話 未央の焦り①

 朝の窓ガラスに、白い空が薄く映っていた。 書斎の机には、昨夜の封筒はもうなかった。写真も、紙片も、識別バンドの写った古い一枚も、高瀬さんが用意した透明な保全袋に移され、記録番号を振られている。 なくなったわけではない。 けれど、目の前から消えるだけで、胸の奥に残ったざらつきはわずかに置き場所を失った。 私は机の端に置かれたコピーを見下ろした。原本ではないと分かっていても、赤ん坊の足首に巻かれた白いバンドから、目を離せなかった。「眠れなかっただろう」 背後から低い声がした。 振り返ると、律が車椅子のまま書斎の入口にいた。黒い仮面は昨夜と同じ位置にあり、膝には薄い毛布が掛けられている。朝の光が仮面の縁に当たり、片側だけが細く光っていた。「……少しは」 律は何も言わず、私の顔を見た。 その視線に耐えきれず、私はコピーへ目を戻した。「二時間くらいです」 律は小さく息を吐いただけで、それ以上は言わなかった。 その間が、かえってありがたかった。眠れと言われても眠れない。休めと言われても、写真の中の日付は消えない。 私はコピーを伏せた。「高瀬さんから連絡は?」「白沢産婦人科医院の閉院届は確認できた。医療法人はすでに解散してる。土地は二度移って、今は倉庫になってるらしい」「早いですね」「公開情報だけだ」 律は、そこで一瞬だけ言葉を切った。「ただ、廃院直前の事務長に関する記録に、葛城の父親の名がある」 コピーの端を押さえていた指が止まった。 葛城静司。 昨夜の封筒を送ってきたかもしれない男。その父親が、私の誕生日と同じ日付の識別バンドが写った産院に関わっていた。 偶然という言葉を、使うには少し多すぎる。「高瀬さんは、どう見ると?」「まだ断定できない、と」「榊さんは」 聞いてから、少し後悔した。 律は何かを知っている。けれど、すべてを言えるわけではない。昨日、それで私は怒った。情報を抱え込まれることが嫌だと、
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第78話 未央の焦り②

『昨夜の晩餐会に関する記事が、業界系ニュースに掲載されました。朝霧様のお名前が出ております。確認をお願いします』 スマートフォンの画面だけが、手の中でやけに明るかった。 私は記事のリンクを開いた。 榊グループの慈善支援事業。若年女性の就労支援。晩餐会に同席した新たな関係者として、私の名前が小さく載っていた。 如月栞ではない。 朝霧栞。 その四文字を見た瞬間、昨夜とは別の場所で、何かが動き出した。◇ 如月家の居間には、花の匂いが濃く残っていた。 晩餐会用に用意した花ではない。未央が苛立つたびに取り替えさせる、香りの強い白い花だ。今朝も花瓶いっぱいに挿されていたが、茎の一本が水の中で斜めに折れている。 未央はタブレットをソファに投げた。 画面はまだ光っている。 記事の中で、朝霧栞という名前だけが、どうしても目に入った。「何なの、これ」 誰に向けた言葉でもなかった。けれど、向かいに座っていた琴美が肩を震わせた。「未央、朝からそんな言い方をしなくても」「お母様は平気なの? 昨日まで如月家を出ていった人間が、急に榊家の支援事業の顔みたいに扱われているのよ」「顔、というほどでは……」「十分よ」 未央は琴美を見た。 泣きそうな母の顔を見ると、少しだけ胸がすく。誰かが困っていると、まだ自分の位置が上にある気がする。 けれど今朝は、その感覚が長く続かなかった。 記事の下に並ぶコメント欄には、昨夜の晩餐会にいた関係者らしき匿名の書き込みが混ざっていた。 ――榊当主が朝霧さんを正式な同席者として扱っていた。 ――質問への返しが冷静だった。 ――如月家側の空気が少し変だった。 少し変だった。 その程度の言葉が、爪の間に入った棘みたいに気になった。 未央は立ち上がり、窓際へ向かった。庭の芝生は朝露で白く光っている。三年前、栞がこの家を出ていった朝も、たしか芝生が濡れていた。 そのことを思い出して、すぐに腹が立
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第79話 未央の焦り③

 窓を背にして、スマートフォンを伏せるようにテーブルへ置く。その動作が、未央にははっきり見えた。 応接室には、磨かれたテーブルの匂いと、空調の冷たさが残っていた。「何を見てたの」「仕事の連絡だよ」「仕事なら伏せなくていいでしょう」 司は一瞬だけ黙った。 その一瞬が答えだった。 未央はテーブルへ近づき、スマートフォンを取ろうとした。司が先に手を伸ばして押さえる。「未央」「見せて」「今はやめよう」「やめよう、って何。私たち、結婚するんでしょう」 司の眉が少し動いた。 その反応だけで、未央のこめかみが熱くなった。「急に、その話?」「急じゃない。ずっと前から決まってた話よ。栞がいなくなって、私が如月家の娘として残って、あなたは私の婚約者になった。何もおかしくないでしょう」「未央、落ち着いて」「落ち着いてる」 声が少し高くなった。自分でも分かったが、下げられなかった。「昨日、あなたはまた栞を見てた」「見てたというか、あの場では――」「言い訳は聞きたくない」 司は唇を結んだ。 言い訳を飲み込んだ顔だった。未央はその顔が嫌いだった。優しそうで、誠実そうで、でも肝心なところで何も選ばない顔。「式の日取りを早めたいの」「今は如月の財務も不安定だし、父とも調整が必要だ」「だから早めるの。榊家が栞を使って何か始める前に、桐生家と如月家の関係を固める必要がある」「使って、って」 司の声が低くなった。 未央はそれを聞き逃さなかった。「何。今の言い方だと、栞が被害者みたい」「あの人は、いつもそう。何も持っていない顔をして、最後には誰かに選ばれる」「そうは言ってない」「言ってるのと同じよ」 司が目を逸らした。 未央の胸の底で、何かが割れた。「あなた、まだあの人が好きなの」「未央」「ごまかさないでよ!」 司はすぐには答えなかった。
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第80話 未央の焦り④

「今さら、そんなふうに逃げるのはずるい。三年前、あなたは私の隣に立ったのよ。栞じゃなくて、私を選んだの」 司の顔がかすかに歪んだ。「それを、なかったことにしないで」「なかったことにはしない」 司の返事は遅れた。応接室の空調だけが、その間を埋めた。「だったら結婚して」 未央はテーブルに手をついた。「今月中に婚約発表を出して。桐生家の正式な発表として。そうすれば、榊家も簡単には手を出せない」「手を出すって、栞はもう――」「また栞」 未央はスマートフォンを握りしめた。 画面の端が掌に食い込む。「あなた、自分がどっち側にいるのか忘れたの?」 司は答えなかった。 その返事のなさが、未央の中の薄い膜を裂いた。 この男はもう、完全には自分のものではない。 そう思った瞬間、未央は急に冷静になった。 司が使えないなら、別の場所から崩せばいい。 榊家の中。 栞のそば。 あの屋敷で、彼女が何をしているのか。どんな部屋で眠り、誰と話し、どんな書類に触れているのか。ひとつでも掴めば、いくらでも形を変えられる。 未央はスマートフォンを開いた。「もういい。式の件は、あなたのお父様に直接相談する」「未央、待ってくれ」「待った結果が昨日でしょう?」 司が立ち上がるより先に、未央は応接室を出た。 廊下のガラスに、自分の顔が映る。 笑っていなかった。 それが、ひどく気に入らなかった。◇ 車に戻ると、未央は連絡先を遡った。 昨夜の晩餐会で、花と食器の搬入を担当していた外部業者。そこの責任者に、昔、如月家の茶会で会ったことがある。直接の榊家使用人ではない。けれど、榊邸の裏口、納品時間、控室の場所を知っている人間なら、ひとりくらいは残っているはずだった。 未央はメッセージを打った。『昨日の榊家の件で、少し確認したいことがあります。報酬は出します』 送信ボタンの上で指が止まった。 報酬
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