身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ のすべてのチャプター: チャプター 91 - チャプター 100

120 チャプター

第91話 九条の名③

「すみません。今の言い方は、よくなかった」  謝られて、逆に言葉が止まった。 「怖がらせたいわけじゃない。ただ、九条の名が出た以上、無関係だと決めて閉じるのは危険です」  私は答えを探すように、机の上の法人関係図へ目を落とした。 「閉じたいんです」  言ってから、自分がどれほどそれを望んでいたのか分かった。  机の上の法人関係図。透明袋に入ったメモ。封筒の古い写真。赤ん坊の識別バンド。  法人関係図の上に、窓からの光が斜めに落ちていた。  どれも私を見ているようだった。 「知らない家の名前まで背負いたくありません。偽令嬢だって言われて、代役で嫁げって言われて、今度は九条ですか。私は、誰かの名前がないと説明できないんですか」  最後のほうは、声が掠れた。  そこまで言うつもりはなかった。  けれど、一度こぼれると止められなかった。  律は黙ったまま、私の言葉が尽きるのを待っていた。その間が長くても、責められている感じはしなかった。  高瀬さんが、机の上の紙を一枚だけ裏返す。こちらから法人名が見えないようにしたのだと、遅れて気づいた。 「君は、九条の人間だからここにいるわけじゃない」  律が言った。 「ただ、誰かが君を九条に近づけないようにしている。そこは、見ないふりをしない方がいい」 「九条の前に立たせるな、って……そういう意味ですか」 「おそらく」 「九条家に会う予定なんてありません。今のところは」 「相手が予定を待つとは限らない」 「分かっています。でも、勝手に先回りされると腹が立ちます」 「それは同感です」  律が真顔で返したので、私は言葉に詰まった。  張っていた肩の力が抜ける。 「……本気で答えるんですね」 「冗談だったんですか」 「半分くらいは」  律は返事をせず、法人関係図へ目を戻した。  それ以上続ける気はないらしい。  悔しかったが、言い返せたことに自分でも驚いた。  ほんの短い間だけ、九条の名を考えずに済んだ。 「……つまり、私はもう巻き込まれてる。そういうことですか」 「巻き込まれている可能性がある、です」  高瀬さんが横から補った。 「今大事なのは、九条家と戦うことじゃありません。あなたが知らないうちに誰かの思惑で動かされないようにすることです。調べる範囲も、止める範囲も、
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第92話 九条の名④

「封筒の写真と、関係がありますか」 高瀬さんが一瞬、律を見た。 律は頷かなかった。 否定もしなかった。「関係しているかもしれない」「かもしれない、ばかりですね」 かもしれない、という言葉は、こんなに不親切だっただろうか。「確証がないうちに、君の出生に関わる話を決めつけたくない」 出生。 出生。聞き慣れない言葉が、自分のこととして耳に残った。 私は笑いそうになった。笑うところではないのに、息だけが変なふうに抜ける。「私、生まれたことまで疑わないといけないんですか」 律の目が、少しだけ揺れた。 見間違いかもしれない。 仮面のせいで、表情はほとんど見えない。 でも、その目だけは、隠せていなかった。「疑うんじゃない。分からなくされているところを、確かめる」「言い方を変えただけです」「そうかもしれない」 律は、そこで初めて視線を逸らした。 机の上には、古い病院写真を入れた透明袋が置かれている。写真の端に写った赤ん坊の識別バンド。薄い印字。私と同じ日付。 それだけなら、偶然だと言えた。 同じ日に生まれた赤ん坊なんて、いくらでもいる。 そう思いたいのに、内側の糸は、また少し引かれた。「九条家に、葵という方がいます」 律の声は、ひどく低かった。 私は顔を上げた。「葵」「九条葵。九条家の一人娘だった人です」「だった?」「今は、公の場には出てません」「亡くなったんですか」「そうは発表されてません。ただ、長く表に出てない」 高瀬さんの表情が、一瞬だけ硬くなった。 この名前は、二人の中ではもう何度も見ている名前なのだと分かった。 私は、知らない。 知らないはずなのに、名前だけが妙に耳に残った。 葵。 祖母の静江さんが、昔、花の名前は人を助けることがあると言っていた。小さな鉢植えに水をやりながら、そんな話をしてくれた気がする。
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第93話 桐生家の沈黙①

 朝の書斎には、庭から上がる雨の匂いが残っていた。 柱時計が、乾いた音を一つ刻んだ。 窓は閉まっている。けれど、庭の濡れた砂利から上がる湿った空気が、どこか紙の匂いに混ざっていた。机の上には、昨夜のまま透明袋に入れられた古い写真と、九条家の関係図を閉じたファイルが置かれている。 九条葵。 その名前は、夜が明けても消えなかった。 似ている、と律は言いかけた。 言われなかったからこそ、残っている。 私はカップに手を伸ばしかけて、やめた。中の紅茶はもう薄く冷めている。指先を温める役にも立たない。「桐生グループ側から、一次回答が来ています」 高瀬さんが、ノートパソコンの画面をこちらへ向けた。 昨夜の端末持ち出し未遂と匿名投稿の件。投稿に使われた経路の一部に、桐生グループ関連会社の業務用ドメインが絡んでいた。正確には、桐生本体ではなく、広報支援やイベント運営を請け負う子会社のアカウントだった。 そこまでなら、まだ言い逃れはできる。 外部委託先が勝手に使った。古いアカウントが残っていた。なりすましの可能性がある。 実際、高瀬さんの画面にも、その言葉が並んでいた。「現時点では、社内調査中。対外的な発表は、調査結果が確定してから。そういう内容です」「つまり、今は何も言わないんですね」 声に波はなかった。 高瀬さんは、わずかに間を置いた。「そう読めます」 律は車椅子に座ったまま、窓側で黙っていた。仮面の黒が、朝の薄い光を吸っている。膝の上に置いた手は動かない。昨夜、私のカップが落ちかけた時に見せた反応速度が嘘のようだった。 私はその手を見てしまい、すぐ視線を戻した。 疑うことが、癖になっていく。 それが嫌だった。「司さんは」 名前を口にしただけで、胸の奥が少し硬くなる。「桐生司様から、個別に通話の申し入れがありました」「個別」「榊側の法務同席を条件にすれば、応じる意味はあります。彼個人が何を知っているか、確認できますから」 高瀬さんは、応じる利点と
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第94話 桐生家の沈黙②

 高瀬さんが同席し、相良さんが記録用の端末を設置する。録音は、開始前に双方の同意を取った。通話画面の端には、桐生グループ法務部の男性が一人、そして司が映っている。 会議室の空調が一定の音で鳴り、画面の中の司の呼吸だけが少し遅れて聞こえた。 司は、以前より少し痩せて見えた。 画面越しでも分かるほど、目の下に薄い影がある。スーツはきちんとしているのに、襟元だけが妙に苦しそうだった。「栞」 呼ばれて、私は一拍遅れてから答えた。「朝霧です」 司の唇が止まった。 隣の法務担当が画面の外で何かメモを取る音がした。小さなキーボード音が、会議室の静けさに混じる。「……朝霧さん」「最後まで聞きます」「今回の件は、本当に申し訳ない。桐生の名前が使われたことは、僕も重く受け止めてる」 重く受け止める。 便利な言い方だ。 何をするかを言わなくても、責任を口にしたように聞こえる。「では、桐生グループから公表していただけますか。私が情報を盗んでいない、と」 司の表情が固まった。 通話画面の向こうで、法務担当がわずかに身じろぎする。「それは、今すぐには難しい。社内調査の手続きがあるし、子会社の管理体制の問題も――」「私の名前は、もう出ています」 遮るつもりはなかった。 でも、言葉はそこへ出ていた。「匿名投稿では、私が榊家の情報を盗んだことになっています。三年前と同じです。先に悪い名前だけが出て、後から手続きだと言われる」「同じにはしない」 司の声が少し強くなった。 私は画面を見た。 その強さが、誰に向いているのか分からなかった。「では、今、何をしてくれますか」 司は答えなかった。 会議室の空調の音が、急に耳につく。テーブルの上の録音用端末には、小さな赤い点が灯っていた。こちらの無言も、向こうの無言も、同じように記録されている。「桐生としては」 法務担当が口を開きかけた。 司が手で制した
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第95話 桐生家の沈黙③

「その先は要りません」  司の口が閉じた。  私は、膝の上で指を組んだ。爪の先が手の甲に当たる。その痛みがあると、声が崩れずに済む。  会議室の空気は乾いていた。画面越しの声だけが、少し遅れて届く。 「私を選んでほしい話じゃありません。事実を選んでください、と言っています」  司は何か言おうとした。  言えない顔だった。  胸が痛んだ。その痛みにまで腹が立った。  高瀬さんが、静かに資料を一枚差し出す。 「桐生グループ関連会社が管理するアカウントの使用履歴について、正式な照会文を送付します。回答期限は本日十八時。対外発表の可否についても、同時に回答をお願いします」  司の隣の法務担当が頷いた。  司だけが、画面から目を逸らしていた。  通話を切ったあと、会議室にはしばらく誰も声を出さなかった。  録音端末の赤い点が消える。  私は、その消えた場所を見ていた。 「大丈夫ですか」と高瀬さんが聞かなかったのは、ありがたかった。  律も何も言わない。  だから、私から言った。 「期待してないつもりでした」  自分の声は掠れていた。 「でも、まだ少し残ってたみたいです。桐生さんなら、今度は事実を選ぶかもしれないって」 「残っていて当然です」  律の声は低い。 「三年前に切られたものは、すぐには消えません」 「優しいことを言うんですね」 「優しいかどうかは分かりません」  律はそこで目を落とした。 「ただ、残っているものを恥じる必要はない」  湯呑みを持ち上げると、縁が受け皿に触れて小さく鳴った。  私は、顔を上げられなかった。  その頃、桐生司は、通話の切れた会議室でしばらく動けずにいた。  法務担当は、榊側から届いた照会文の確認に移っている。父の秘書室へ回すべきか、広報部を通すべきか、淡々と手順を口にしていた。  手順。  さっき栞に突きつけられた言葉が、まだ耳に残っている。  事実を選んでください。  それだけのことだった。  なのに、司はまた、家の信用と役員会と父の顔色を先に見た。  スマートフォンが震える。  未央からだった。  画面には、短いメッセージが並んでいた。 『司さん、今どこ?』 『榊家の人たちに何か言われたの?』 『私、怖い』  最後の一文だけ、間を置いて届いた。 『栞
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第96話 桐生家の沈黙④

 昔からそうだ。未央は泣く時も、相手が受け取りやすい形に整える。 録音中の赤い点が、静かな部屋でやけに目についた。 司はそれに気づいていた。 気づいているのに、言葉が鈍る。「情報漏洩の投稿に、桐生の関連会社が使われた」「私じゃない」「未央」「信じてくれないの?」 その言葉は、司が一番弱い場所に落ちた。 信じる。 信じない。 三年前も、司はそこから逃げた。 栞を信じると、家に逆らうことになる。未央を疑うと、目の前で泣く人を傷つけることになる。 だから、何も選ばなかった。「……事実を確認したいだけだ」「それ、もう疑ってるってことじゃない」 未央の声が震える。 司は、電話を握る手に力を込めた。「今夜、会えるか」「会ってくれるの?」「話を聞く。全部」「ありがとう、司さん」 ほっとしたような声だった。 その奥に、何かが隠れているように見えた。 けれど司は、まだ踏み込まなかった。 踏み込むには、自分がどれだけ間違えてきたかを認めなければならない。 電話を切ると、会議室の扉が開いた。 入ってきたのは、父だった。 桐生グループ会長。司が、子どもの頃から一度も正面から逆らえなかった人。 父は、司の手元のスマートフォンを一瞥した。「榊に、面会を申し込む」「父さん」「お前は黙っていろ。もう十分、余計な情を挟んだ」 司は、何も返せなかった。 父は秘書に目を向ける。「榊律と、非公開で。朝霧栞は同席させるな」 その言葉に、司は初めて顔を上げた。 けれど、声は出なかった。 夕方、榊邸の書斎に一本の連絡が入った。 高瀬さんが文面を確認し、眉をわずかに動かす。「桐生グループ会長秘書室からです。榊様へ、非公開面談の申し入れ。議題は、今回の投稿経路と、今後の対応について」 律は文面を受け
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第97話 仮面越しの面談①

 面談は、翌日の午後三時に決まった。 小会議室の床で、車輪の金具が控えめに鳴った。 榊邸の一階にある小会議室は、書斎よりも温度が低かった。壁際には細い観葉植物が二鉢置かれ、中央の長机には、録音同意書と議事メモ用の用紙が等間隔に並べられている。 高瀬さんが、卓上レコーダーの赤いランプを確認した。「本日の面談は、双方同意のうえ録音します。発言内容は、今回の投稿経路および桐生グループ関連会社の関与確認に限ります。よろしいですね」 桐生会長は、すぐには頷かなかった。 グレーのスーツに隙はない。けれど、椅子に腰を下ろす時だけ、背もたれへ手を添える動作が少し乱れた。「榊さんとだけ話すつもりでしたけど。……違いましたか」 視線が、私の前で止まる。 名指しはされなかった。 それでも、言われていることは分かった。 朝霧栞は、この場に必要ない。 まただ、と思った。 私の名前が議題になっているのに、私は邪魔だという顔だった。三年前から、何度も見た顔だ。 膝の上に置いた指先を、ゆっくりほどく。 隣で、車椅子の車輪がほんの少し鳴った。「桐生会長」 律の声は、低かった。「朝霧栞に関する話を、朝霧栞抜きで進めるつもりはありません。そこは通せません」「榊さん」「彼女の同席が不都合なら、本日の面談はここで終了します」 高瀬さんが、何も言わずにペン先を止めた。 桐生会長の口元が、わずかに硬くなる。笑顔の形を作ろうとして、途中でやめたような顔だった。「……ずいぶん、その女性を信用してるんですね」「信用の有無は関係ありません。本人に関わる話を、本人抜きで進めない。それだけです」 律はそれ以上、付け足さなかった。 短い返答だったが、机の上に置かれた紙の見え方が変わった。 私は守られているのではない。 少なくとも今、この席から外されないための椅子を、隣の人が引いている。 桐生会長は息を逃がした。
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第98話 仮面越しの面談②

「社内の問題を、ここで断定するつもりはない」 桐生会長の声に、少し苛立ちが混じった。 会議室の水差しの水面が、わずかに揺れた。「当然です。だからこそ、回答期限を設けたいと申し上げています」 律はまだ資料を見ていなかった。 黒い仮面の奥の目だけが、桐生会長を見ている。「三営業日以内に、一次報告を」「榊さん。こちらにも手順があります」「手順を踏むための日数です」 桐生会長の指が、資料の角を押さえた。「この件を公にされれば、桐生の信用にも傷がつく」 そこで、ようやく私を見る。「朝霧さん。あなたにも、余計な注目が集まります。三年前のことまで、また掘り返されるかもしれない」 丁寧な声だった。 けれど、内側にあるものは聞き慣れていた。 黙っていろ。 そうすれば、これ以上傷つかずに済む。 私は、机の下で足を揃えた。「三年前も、そう言われました」 高瀬さんのペンが、一度だけ紙を擦った。「波風を立てるな。家のためだ。司さんのためだ。未央のためだ。……言い方は、少しずつ違いましたけど」 司の父は、眉を寄せた。「そういう話をしてるんじゃありません。分かってますよね」「同じです」 声は低く出た。「私の名前を使うなら、私の前で話してください。私の過去を理由に黙らせるなら、その過去を作った人たちの名前も一緒に出してください。……私だけを、都合よく黙らせないで」 桐生会長の目が細くなる。 怒りではなく、値踏みだった。 やっぱりこの人も、私を一人の人間として見ていない。 桐生家にとって都合の悪い元婚約者。 榊家に嫁いだ厄介な女。 そのどちらかでしかない。「強くなられた」 桐生会長が、ゆっくりと言った。「榊さんのおかげですか」 律の手が、肘掛けの上で止まる。 先に答えたのは、私だった。「いいえ」
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第99話 仮面越しの面談③

 桐生会長は薄く笑った。「人は、隠されたものを見たがります。榊さんほどの方なら、よくご存じでしょう」 扉が閉まる。 残った音は、レコーダーの小さな電子音だけだった。 廊下の向こうで、閉じた扉の金具が小さく戻る音がした。 高瀬さんが録音を停止し、データ保全の手順を確認してから退室する。相良さんも、律に短く一礼して部屋を出た。 私と律だけが残る。 会議室の長机は、急に大きく見えた。「……すみません」 律が言った。 私は顔を上げる。「今のは、あなたが謝ることじゃないと思います」「それでも、聞かせていい言葉じゃありませんでした」 私は言葉を探すように、長机の端へ目を落とした。「聞かなくても、言われてることは分かります」 言葉にした直後、少しだけ言い方を誤ったと思った。 尖りすぎたかもしれない。 けれど、律は怒らなかった。 黒い仮面の下で、視線が一度だけ伏せられる。「朝霧さん」「言って」「今の言葉で、君に余計な疑いを持たせたくない」 車椅子が、窓際の小さな休憩室へ向きを変えた。私は少し迷ってから立ち上がる。逃げ道を示されたのに、逃げたくない自分がいる。そのことが、少し腹立たしかった。 休憩室には、一人掛けの椅子と低い丸テーブルがあるだけだった。午後の光がレースのカーテンを通り、床に四角く落ちている。 律は、テーブルの前で車椅子を止めた。「ここから先は、君が聞きたいなら話す」「聞きたくなかったら」「聞きたくないなら、今日はここで終わりにする」 その区切り方は、私に優しいようで、彼自身を守っているようにも見えた。聞くかどうかを私に預けているようで、本当は彼自身もまだ言葉を選んでいる。そう見えてしまったからだ。 私は丸テーブルの端に指を置いた。木目の小さな凹みが、爪の先に引っかかる。「聞きます」 律は頷いた。 けれど、すぐには話し始めなかった。黒い仮面の留め具へ伸びかけた
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第100話 仮面越しの面談④

 休憩室の水差しには、氷がもうほとんど残っていなかった。グラスの外側についた水滴が、丸テーブルに小さな輪を作っている。 私は、その輪を指でなぞりかけて、やめた。こんな時に何をしているのだろう。怒るなら怒ればいいのに、喉が渇いていることまで分かってしまう。「……水、飲みますか」 気づけば、そんなことを聞いていた。 律は水差しを見てから、私を見る。「今、その心配をするんですか」「顔色が悪いから」「君もです」 言われて、返す言葉がなかった。仮面越しでも分かるほどなら、相当らしい。「……じゃあ、二人とも飲みましょう」 律が短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。それが少し腹立たしかった。 私は水差しを取り、二つのグラスに水を注いだ。怒っているのに、気遣ってしまう。気遣われると、今度は逃げたくなる。私は、自分の中にある矛盾を持て余していた。「私も、見られてたんですか」 律の指が、肘掛けの上で止まった。「最初は」 丸テーブルに置いていた指を、私は引いた。「君が私をどう見るか、確かめていた」「……そうですか」 うまく笑えない。「でも、あなたは笑わなかった。哀れまなかった。必要なところだけ手を貸して、それ以上は踏み込まなかった」 律はすぐには返さなかった。肘掛けに置いた指が、一度だけ動く。「褒められても、あまり嬉しくない。……褒め方が、たぶん下手だ」「分かってます」「分かってたら、もう少し早く言って」 声が、思ったより小さくなった。怒鳴りたいわけではなかった。けれど、何も感じないふりもできない。「また何も知らないまま、誰かの都合の中に置かれていたのかと思いました」 律の目が、仮面の奥でかすかに強張った。「……それは、私の過ちです」 謝罪の言葉は短かった。言い訳も、なかった。だから余計に、すぐ許してしまいそうにな
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