身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ のすべてのチャプター: チャプター 81 - チャプター 90

120 チャプター

第81話 盗まれた端末①

 朝の書斎には、夜の冷気がまだ残っていた。  廊下の向こうで、車輪の音が一度して止んだ。  窓の外で枝が揺れるたび、薄い光が机の上を横切る。昨日、葛城静司から届いた封筒は、透明な証拠袋に入れられたまま、高瀬さんの持ち込んだ鍵付きのケースに収められていた。  写真。識別バンド。日付。廃院した産院名。  どれも、私の中に入れておくには角が硬すぎるものばかりだった。  だから私は、目の前の作業用端末に逃げた。  逃げる、という言葉が気に入らなくて、すぐに打ち消す。仕事だ。確認だ。昨日、高瀬さんから許可された範囲の公開情報と、榊家法務が保全した資料の照合。私が勝手にどこかへ侵入しているわけではない。  端末の電源を入れると、ログイン画面が出た。  いつもなら、それだけで少し息が整う。  けれど、その朝は違った。  キーボードの左端が、ほんの少し濡れていた。  水滴というほどではない。手の先で触ると、冷たい跡だけが残る。私は指を止めた。机の右側に置いていたはずの小さな付箋も、位置が違う。夜中に自分で動かした記憶はない。  端末の角度も、ほんの少し開きすぎている。  私は椅子に座らなかった。  机の前で立ったまま、扉の方を見た。 「相良さん」  声を張ったつもりはなかった。けれど、数秒後には廊下の向こうから足音が近づいてきた。 「お呼びでしょうか」 「この部屋、昨夜から誰か入りましたか」  相良さんの眉が、ほんの一瞬だけ動いた。 「朝の清掃係は入室しておりません。昨夜も、律様と高瀬様が退出された後は施錠しております」 「鍵は」 「私と律様、予備を管理室で保管しています。記録上、持ち出しはございません」  記録上。  その響きが、今は妙に心に引っかかった。 「端末に、誰かが触った跡があります」  言ってから、喉の奥が冷えた。 「また、です。誰かが触って、ずらして、あとから私が悪いことにする。そういう手つきに見える」  相良さんの視線が机へ落ちた。  濡れたキーボード。ずれた付箋。開きすぎた
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第82話 盗まれた端末②

 パスワードを入れる。濡れたキーに触れるたび、知らない誰かの指跡をなぞっているようで気持ちが悪かった。 ログイン後、深町さんの指示で、まずOSの標準ログと、最近使ったファイルの履歴を開いた。専門的な解析は、保全後に情報管理部が行うことになった。 昨夜の作業終了時刻は午前一時十四分。私が最後に保存した照合表のタイムスタンプも一致している。そこまでは問題ない。 問題は、その四十二分後だった。 午前一時五十六分。 私のユーザーで、外部ストレージの接続記録がある。 その次に、圧縮ファイルの作成履歴。 さらに二分後、榊家のゲスト用ネットワークへ接続し直した痕跡。 私はシャツの襟元を指で少し引いた。「その時間、私は部屋にいません」 言ったあとで、変な言い方だと思った。私はこの屋敷の中にいた。自室で寝ていた。それを証明できる人間は、たぶんいない。 高瀬さんが静かに頷いた。「防犯記録と照合します。朝霧様、そのまま続けてください」 私は頷き、イベントログを開く。 外部ストレージの製造番号。容量。接続時間。切断時間。 見慣れた文字列なのに、今日は針のように見えた。 深町さんが画面を覗き込む。「これ、端末ロック解除はご本人のパスワードですよね」「ただ、私はパスワードを紙に書いてませんし、誰かに渡してもいません」「肩越しに見られた可能性は」 言われて、昨日の晩餐会が脳裏をかすめる。衣装室、食堂、管理室。端末を開いた場所は限られている。けれど、ゼロではない。 相良さんが低く言った。「昨日、臨時スタッフの一名が管理廊下へ迷い込んでおります。搬入口から控室へ戻る経路を誤ったとの報告でした」「名前は」「現在確認中です」 私は画面から目を離せなかった。 外部ストレージから作られた圧縮ファイル名は、ひどく分かりやすかった。 KMS関連照合資料。 私が昨日、封筒の写真と照合しようとしていた名前だ。 画面の文字列が、急に遠く見えた。「これを流せば
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第83話 盗まれた端末③

 車椅子の車輪が、絨毯の上で止まる。黒い仮面の奥の目が、私ではなく端末を見ていた。 記録用カメラのランプが、机の端で小さく光っていた。「続けられますか」 大丈夫か、とは聞かなかった。 その聞き方が、少しだけありがたかった。「続けます」 私は通信先の履歴を開いた。 ゲスト用ネットワークから外へ出た通信は、途中で複数の中継を挟んでいた。無料の匿名化サービスではない。企業向けのリモート保守サーバを踏み台にしている。「これ、素人の仕事じゃありません」 深町さんの声が低くなる。「ただの外部スタッフが、ここまで準備したとは考えにくいです」「誘導されたんですね」 私が言うと、高瀬さんが記録を取りながら目を上げた。「可能性は高いです。朝霧様、断定はまだ避けましょう」「断定しません」 断定しない。 三年前、誰もそれをしてくれなかった。だから、今は私が自分に言い聞かせる。 画面の白さが目に痛い。通信先のドメインを一つずつ開く。公開情報、whoisの履歴、企業名、証明書の発行先。見えるものだけを拾う。見えないものは、見えないままにしておく。 焦るな。 怒りで手を滑らせたら、それこそ相手の思う壺だ。◇「朝霧様、確認しておきます」 深町さんが、記録用のカメラを止めずに言った。「これは榊家の業務端末じゃなく、朝霧様個人の作業用端末です。ただし、榊家の保全対象資料にアクセスしていたため、こちらでも証跡保全を行います。勝手に中身を吸い上げることはしません」「……お願いします」 そう言えることが、少しだけ救いだった。 三年前は、私の鞄もスマートフォンも、誰かの手で勝手に開けられた。私のものなのに、私の許可はいらないように扱われた。 今、端末の中身を守る手順がある。 勝手に中身を見られない。その事実を、私は頭の中で何度か確かめた。 最後の中継先で、私は手を止めた。 画面に表示された会社名を、何度も読み直す。
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第84話 盗まれた端末④

 高瀬さんは内容を確認し、顔を上げた。 会議室のブラインドが、空調の風でかすかに鳴った。「相良様。搬入口の臨時スタッフが一名、今朝から連絡不能です」 相良さんの目が細くなる。「氏名は」 高瀬さんが端末を見直し、短く息を吸った。「登録名は、柏木里奈。派遣会社経由です。ただ、本人確認書類の住所に不一致があります」 深町さんが別の画面を開いた。「ゲストWi-Fiの接続端末名と、そのスタッフに貸与した入館用QRの時刻が重なっています。午前一時五十六分の前後で、書斎側の廊下に入っています」 私は机の上の端末を見た。 盗まれたのは、端末そのものではない。 信用だ。 もう一度、私を濡れ衣の中へ戻そうとしている。「朝霧様」 高瀬さんが、慎重に言った。「今後、榊家内で事情聴取が入ると思います。その時は、朝霧様にも説明をお願いすることになります」「構いません」 今度は、すぐに答えられた。 律がこちらを見る。 私は端末を閉じなかった。「隠されたまま守られるのは、嫌です。疑われるなら、疑われる場所で説明します」 言い切ると、机を押さえていた指から少し力が抜けた。 強くなったわけではない。 ただ、逃げる場所がないなら、立つ場所を自分で決めるしかない。 高瀬さんが頷き、相良さんへ視線を移した。「関係者を集めます。外部業者の責任者、臨時スタッフ登録担当、情報管理部、法務。可能であれば、桐生データソリューションズ側にも正式照会を出します」「桐生側は、すぐには認めないでしょうね」 私が言うと、律が静かに応じた。「認めさせる必要はありません。まず、記録を残す」「……それなら、私からも言おうと思ってました」 律が一度だけ瞬きをした。 笑ったのかもしれない。 仮面のせいで、そこまでは分からなかった。 それだけで、張りつめていた空気に細い穴が開いた。 私はもう一度、画面の会
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第85話 二度目の濡れ衣は失敗する①

 会議室のガラス壁に、朝の光が薄く張りついていた。 会議室の床で、車輪の金具が低く鳴った。 榊グループ本社の二十二階。広報部の会議室は、昨夜の榊邸の書斎よりずっと明るい。明るすぎて、机の上に置かれたノートパソコンの指紋まで見えた。 その薄い跡を、私は何度も見ないようにした。 私の端末ではない。 昨夜、誰かに触られた端末だ。 長い楕円形の机の向こう側には、高瀬さんと情報管理部の主任が座っている。外部業者の責任者、榊邸の臨時スタッフ登録を担当した派遣会社の担当者、その隣に若い女性がひとり。昨夜、搬入口から榊邸へ入った臨時スタッフだと聞かされている。 律は、窓側に車椅子を停めていた。 黒い仮面の下の目は、こちらを見ていない。けれど、私がマウスに手を置くたびに、視線だけが少し動く。「公開の場にはしません」 高瀬さんが、先に口を開いた。「この場は、榊グループ法務部、情報管理部、関係業者による事実確認です。録音します。よろしいですね」 誰も、すぐには返事をしなかった。 外部業者の責任者が額の汗を拭き、派遣会社の担当者が小さく頷く。若い女性は膝の上で両手を握りしめたまま、視線を落としていた。 匿名アカウントの投稿は、夜のうちに広がり始めていた。 偽令嬢は、今度は榊家の情報まで盗んだ。 その一文は、三年前に聞いた言葉とよく似ていた。違うのは、今の私の前に、削除された動画ではなく、残されたログがあることだった。「朝霧さん」 情報管理部の主任が、私を見た。「説明できますか」 丁寧な声だった。けれど、その奥にある警戒は隠れていない。 当然だと思う。 私はまだ、榊家の人間ではない。外部から来た女で、榊邸の書斎に出入りし、端末を持ち込み、如月家と桐生家に関わるデータを見ていた。 疑われる理由は、ある。 だからこそ、私は椅子の背もたれからわずかに離れた。「説明します。ただし、推測と事実を分けます」 声が少し硬かった。 律がこちらを見た気配がした。でも、口は挟まなかった。
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第86話 二度目の濡れ衣は失敗する②

 私は画面を切り替えた。「この外部ストレージの製造番号と容量は、情報管理部で控えています。接続時間は一時五十六分から二時二分まで。圧縮ファイルが一つ作成されていますが、実際に持ち出されたデータは、私が昨夜作成した検証用のダミー表です」「ダミー……ですか」 外部業者の責任者が、かすれた声で言った。「個人情報も、榊家の機密情報も入っていません。桐生データソリューションズの名前が入った列も、私が照合用に作った公開情報ベースの一覧です」 派遣会社の担当者が息を吸う音がした。 匿名投稿には、ぼやけた照合表の画像が添付されていた。見た人間には、榊家の内部資料に見えるだろう。けれど、よく見れば、行番号が抜けている。列名も違う。私が本物の作業ファイルに似せて作った、検証用の箱庭だ。 昨夜、ログを追いながら、私はそれを見て初めて気づいた。 盗まれたのは、本物の資料ではなかった。 相手が本物だと思い込んだ、作業途中のダミーだった。 私が意図して置いたわけではない。ただ、作業途中のデータを本番ファイルと分けていた。コンビニの事務室で、売上表を触るときからの癖だ。間違えて上書きしないよう、検証用の複製には必ず印をつけていた。 その癖が、今回は私を守った。「では、投稿された画像は」 情報管理部の主任が低く言った。「盗まれたのは、ダミーファイルのスクリーンショットです。画像の端に、作成時刻と一時保存フォルダ名が残っています。投稿は二時十八分。榊邸のゲストWi-Fiから外部へ出た通信は、二時十一分で切れています」 壁に、次の表を映す。 ゲストWi-Fiの端末名。入館用QR。控室から管理廊下へ移動した時刻。USB接続の時刻。 点と点が、短い線でつながっていく。 ただし、その線だけで誰かを罰することはできない。高瀬さんは、派遣会社の契約、本人確認書類、現場の聞き取りを合わせて初めて、事実として扱えると念を押した。◇ 情報管理部の主任が、画面の端に小さく残ったファイル名を指した。「この『test_local_03
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第87話 二度目の濡れ衣は失敗する③

「昨夜、管理廊下に入りましたね」「……迷いました」「その説明は、昨夜も聞きました」 相良さんの声は荒くならない。だから余計に、逃げ場がなかった。 会議室の紙コップの水面が揺れた。「迷った先で、なぜ朝霧様の端末が置かれた部屋に入ったのですか」「入ってません」 すぐに返ってきた否定は、少し早すぎた。 私は画面をもう一度切り替えた。「この写真は、管理廊下の防犯カメラから切り出したものです。顔は映っていません。でも、スタッフ用のエプロンの裾に、花材搬入会社のタグが残っています」 椎名さんの手が、膝の上で強く握られた。 彼女は私を見なかった。 私は、そこで初めて画面から目を離した。「……責めたいわけじゃない、と言えば嘘になります」 自分の声が、思っていたより低かった。 責めたくないわけではない。私は、怒っている。三年前と同じ言葉で、また私を潰そうとした人間がいる。その事実に、体の内側が熱くなっている。 でも、ここで怒鳴れば、相手の望む形になる。「ただ、私はもう、やってないことを黙って引き受けるつもりはありません」 会議室が静かになった。 律の指が、車椅子の肘掛けに触れた。止めるためではない。たぶん、私の言葉を聞くための動きだった。 椎名さんの肩が震えた。「……お金を、渡されました」 派遣会社の担当者が顔を上げた。「誰にですか」 高瀬さんが、すぐに聞いた。 椎名さんは、首を横に振った。「女の人じゃありません」 私は息を止めた。 未央の名が出ると思っていた。むしろ、出てほしかったのかもしれない。分かりやすく憎める相手を、私は探していた。 けれど、椎名さんは違うと言った。「如月未央さんじゃない?」 高瀬さんの確認に、彼女は小さく頷いた。「未央様の知り合いだと聞きました。でも、直接会ったのは男の人です。電話と、メッセー
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第88話 二度目の濡れ衣は失敗する④

 椎名さんの声が潰れた。 私は、彼女を見た。 怖がっている。おそらく、彼女も全部を知っていたわけではない。金に困っていたのか、脅されたのか、それとも軽く考えていたのか。 ガラス壁に、会議室の蛍光灯が白く滲んだ。 同情は、できなかった。 でも、彼女ひとりを燃やして終わらせたら、また同じことが起きる。「椎名さん」 名前を呼ぶと、彼女はびくりとした。「あなたが私の端末に触ったことは、消えません」 彼女の唇が震えた。「でも、誰に言われたのかを隠したままだと、あなたはその人の身代わりになります」 身代わり。 その言葉が、自分の口から出た瞬間、胸の奥が軋んだ。 私は、彼女を助けたいわけではない。 ただ、身代わりにされる構図を、もう見たくない。 椎名さんはしばらく黙っていた。やがて、鞄の底からスマートフォンを取り出した。「メッセージ、残ってます」 高瀬さんが、端末を直接受け取らず、提出方法を説明した。任意提出であること。コピーを取ること。必要なら弁護士や派遣会社の担当者に同席してもらえること。 その手順が、妙に長く感じた。 でも、その長さが必要なのだと思った。 三年前の私は、手順を飛ばされた。 問いただされ、殴られ、追い出された。 誰も、記録を取らなかった。 誰も、私の話を聞かなかった。 だから今、私はこの面倒な手順に救われている。 椎名さんのスマートフォンから、スクリーンショットではなく、元のメッセージ画面が表示された。相手の名前はない。番号だけ。けれど、送信者のアイコンには、灰色の紋のような画像が入っていた。 さっきの紙片と、同じ形。 高瀬さんのペン先が止まり、相良さんが律を見た。 律が、仮面の下で目を細める。「……ここから先は、榊家だけの話じゃありません」 低い声だった。 私は壁に映った灰色の紋を見つめた。 知らない形のはずなのに、私は膝の上の手を握っていた。
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第89話 九条の名①

 会議室の壁に映った二文字は、しばらく消えなかった。 車輪が短く動き、会議室の空気が一拍遅れて張った。 九条。 高瀬さんが椎名さんのスマートフォンを直接持たず、専用の袋に入れる。派遣会社の担当者が、蒼い顔で同意書に目を通していた。ペン先が紙に触れる音が、やけに大きい。 さっきまで私を見ていた人たちは、もう私を見ていない。 壁の文字を見ている。 その間で、その名前がただの名字ではないことが分かった。「本件は、ここで一度区切ります」 高瀬さんが言った。「椎名さんには、このまま派遣会社の担当者同席で事情を整理していただきます。任意提出の範囲、今後の聴取の有無、警察相談の可能性については、こちらから改めて書面で共有します」 椎名さんは唇を噛んだまま頷いた。 泣かなかった。泣けなかったのかもしれない。 相良さんが扉を開け、派遣会社の担当者と椎名さんを外へ案内する。廊下へ出る直前、椎名さんが一度だけこちらを見た。 謝罪の言葉はなかった。 私も、求めなかった。 扉が閉まると、会議室の空調の音だけが残った。 壁の投影はすでに消えている。けれど、白い壁には、まだ二文字の跡があるように見えた。「栞さん」 律が呼んだ。 車椅子のブレーキにかけられた指が、まだ少し硬い。あの夜、落ちかけたカップを受け止めたときと同じ、妙に迷いのない力だった。「場所を変えましょう。ここでは、話しにくい」「ここでは話せないんですか」「今残っている人だけで話したい」 その答えで、軽い話ではないことだけは分かった。 私は立ち上がった。膝の上に置いていた手の先が、冷たくなっている。椅子の脚が床を擦る音に、自分でも少し驚いた。 高瀬さんは資料をまとめ、相良さんは何も聞かずに先に廊下へ出た。 律の車椅子は静かに動いた。 廊下の窓から、午後の光が斜めに入っている。床の石目に沿って、車輪の影がゆっくり伸びていった。 書斎に入ると、相良さんが入口で一礼した。「私は外におります」
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第90話 九条の名②

 高瀬さんは机の上に、一枚の紙を置いた。印刷された法人関係図だった。いくつもの四角い枠と細い線が、蜘蛛の巣のようにつながっている。 法人関係図の端が、空調の風でわずかに浮いた。 九条グループ。 九条医療財団。 KMSホールディングス。 関連法人、出資先、委託先。 名前だけなら、ニュースで見たことがある。古い家柄。大きな企業。美術館や病院に寄付をしている一族。 けれど、紙の上で線になったそれは、知らない町の地下に張られた水道管みたいだった。表からは見えないところで、どこまでもつながっている。「旧財閥系、と言えば分かりやすいでしょうか」 高瀬さんが言った。「現在は持株会社、医療法人、学校法人、財団、投資会社に分かれています。表向きはそれぞれ別の組織です。ただ、役員の出入り、人脈、資金の流れを見ると、完全に無関係とは言えません」「その人たちが、私を榊家から出せと?」「まだ、九条家本体の指示とは断定できません」 高瀬さんはすぐに訂正した。「現時点で言えるのは、その連絡先が、九条グループ周辺の委託業者と接点を持っている可能性がある、というところまでです」「可能性」「ええ。ここで断定すると、逆に足元をすくわれます」 可能性、という言葉に、返事が少しだけ遅れた。 三年前、誰も可能性とは言わなかった。 私がやった、と決めてから話が始まった。 今は、面倒なくらい言葉が慎重だ。 その慎重さが、わずかに私を守っている。「九条家って、そんなに危ないんですか」 聞くと、高瀬さんは律を見た。 答える権利を、律に渡したようだった。 律は、机の端に置かれた法人関係図を見ていた。仮面の縁に、窓からの光が細くかかっている。「危ない、だけでは説明が足りません」「じゃあ、何を警戒すればいいんですか」「九条家そのものより、関わっている範囲です」「範囲?」「病院も学校も、土地も金融もある」 その並びを聞いて、冗談を返す気が失せた。
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