All Chapters of 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました: Chapter 11 - Chapter 20

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第2話 優しいふりもできない夫③

 口にした瞬間、空気が静まる。 ヴィルレオはその場で固まったように立ち尽くした。いつもなら表情の変化に乏しい顔が、ほんのわずかだけ動揺を見せる。自覚がなかったのだろうか。あるいは、自覚していても指摘されるとは思わなかったのか。 リュゼリアのほうも、自分が何を言っているのか途中から怖くなっていた。昨日から、普段なら飲み込むはずの本音がぽろぽろと零れている。体調が悪いせいだと誤魔化したいが、たぶんそれだけではない。「忘れてください」「昨日も同じことを言ったな」「……申し訳ありません」「謝るな」 またそれだ、とリュゼリアは思う。彼は謝られることを好まないくせに、謝らせるような沈黙ばかりつくる。 ヴィルレオは視線を逸らし、しばらくしてから低く言った。「わからない」「え?」「どう言えば、余計な角が立たずに済むのか」 あまりに真っ直ぐな困惑で、リュゼリアは思わず彼を見つめた。 王都でもっとも近寄りがたいと噂される公爵が、まるで難解な書物の前で立ち尽くす少年のように、眉間に皺を寄せている。「……そうでしたの」「必要なことだけ言えば足りると思っていた」「はい」「足りていなかったのだろう」 その一言に、リュゼリアの指先がそっと膝の布を握った。 彼は今、何を認めたのだろう。自分の不器用さか。夫としての不足か。それとも、彼女が足りないと感じてきたものの存在そのものか。 胸が静かに高鳴る。けれど、それを悟られてはいけない気がして、彼女は目を伏せた。「……わたくしは、旦那様が話し下手でいらっしゃることくらい存じております」「慰めか」「事実です」 今度こそヴィルレオの口元がごくかすかに動いた。笑った、と言うにはあまりにも微細な変化だったが、それでも確かに、彼の顔から一瞬だけ氷が薄く剥がれた。 その一瞬を見てしまったことが、ひどく危険に思える。 こんなふうに、ときおり本当の顔を覗かせるから、この人は残酷なのだ。最初から冷たいだけなら、もう少し楽に諦められたかもしれないのに。 廊下の先で、誰かが控えめに足を止めた気配がした。続いて執事の声が扉越しに届く。「旦那様。北方より急ぎの使者が」 ヴィルレオの表情が瞬時に切り替わる。私的な迷いをすべて奥へ押し込み、公爵の顔になる。その切り替えの鮮やかさに、リュゼリアはいつも少しだけ息を呑む。「入れ
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第2話 優しいふりもできない夫④

「……そんなに深刻なお顔をなさらないでくださいませ」 沈黙に耐えかねて、リュゼリアが言った。「わたくしまで不安になります」 ヴィルレオはすぐには返さなかった。彼は火の入ったランプのそばへ視線を向け、その橙色を見つめているようだった。「不安ではないとでも言うつもりか」 やがて、低い声が落ちる。 リュゼリアは息を止めた。 不安ではないとでも言うつもりか。 それは、誰のことを言っているのだろう。彼自身か。彼女か。それとも両方か。「……不安です」 正直に認めると、喉が少し震えた。「ですが、怖がってばかりいても仕方ありませんわ」「怖がるなとも言えない」「旦那様はそういうことを仰らない方ですものね」 ヴィルレオは椅子を引き、寝台の脇へ腰を下ろした。昨夜も立ったままだった場所へ、今日は座る。そのことに、リュゼリアの心臓がまた少し早くなる。「俺は、安易な慰めが嫌いだ」「知っています」「大丈夫だと根拠なく言うのも」「ええ」「だが」 彼はそこで言葉を切った。大きな手が膝の上で一度だけ握られ、ゆっくり開く。「……昨日より今日のほうが、まだましだと聞けば安心する」 たったそれだけの告白に、リュゼリアの胸の奥が熱くなった。 この人は、本当に、優しいふりすら下手なのだ。 甘い言葉も、繕った微笑みも、たぶん一生うまくはならない。けれどその代わり、絞り出すように口にした本音だけは嘘ではないのだろう。「そうでしたら……」 リュゼリアはシーツの上で指先を重ねた。「明日も、今日よりましだとお伝えできるようにいたします」「約束はするな」「どうしてですか」「守れなかったとき、お前がまた謝る」 あまりにその通りで、リュゼリアは少しだけ目を丸くしたあと、笑ってしまった。今度は喉に響かない程度の、小さな笑いだった。「では、努力いたします」「それでいい」 短い返事。 でも、その「それでいい」は、これまで何度も向けられてきた許可や評価とは違って聞こえた。少しだけやわらかい。少なくとも彼女には、そう感じられた。「旦那様」「なんだ」「お忙しいのに、今日は何度もお部屋へ来てくださって」 礼を言おうとして、言葉を探す。ありがとう、だけでは足りない気がした。けれど、それ以上の適切な言葉も見つからない。「……本当に、ありがとうございます」 ヴィル
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第2話 優しいふりも出来ない夫⑤

 アイダは落ち着いて答えたが、そのやりとりを聞きながらリュゼリアの胸は妙に熱くなった。俺の部屋でも執務室でも。そこには隠しようのない緊張がある。けれどその緊張を、彼はやはり優しい言葉には変えられない。 薬を飲み終えるのを見届けると、ヴィルレオは立ち上がった。「休め」「はい」 彼は数歩進み、扉の前でほんの一瞬だけ立ち止まる。何か言い残していきたいように見えたが、結局そのまま出ていった。 閉じられた扉を見つめながら、リュゼリアはシーツの上へそっと指を這わせた。「……アイダ」「はい、奥様」「旦那様は、もともとあのような方だったかしら」 アイダは一瞬だけ意味を測るように目を細めた。「どのような、でございましょう」「優しいのに、不器用で」 アイダは返答の前に、薬の瓶を盆へ戻した。それから穏やかに言う。「旦那様は昔から言葉が少ない方ではありましたが、奥様のこととなると、輪をかけて拗れておいでのように見えます」「……そう」「他人には冷たく切り捨てるだけで済むことも、奥様相手にはそうもいかないのでございましょう」「でも、優しくすることもできないのね」「できないのではなく、やり方をご存じないのかと」 その言い方に、リュゼリアは苦く笑った。「それでは困るわ。夫婦ですのに」「ええ。本来は、とても」 アイダはそこで言葉を切った。言いすぎたと思ったのかもしれない。リュゼリアもそれ以上続けさせる気はなかった。胸の内に触れれば、まだ簡単に血が滲みそうだった。     ◇ 夜は思いのほか静かに更けた。 熱は薬でいくらか引き、咳も昨夜ほどひどくない。けれど眠る前、リュゼリアはなかなか寝台に入れずにいた。部屋のランプを落とし、窓辺へ立つ。雨はすでにやみ、雲の切れ間から薄い月が覗いている。濡れた庭は白く鈍く光り、石畳の上に枝の影が細く伸びていた。 昼間、ヴィルレオが持ってきた飴の箱を開ける。 蜂蜜のものと、香草のもの。彼が言った通り、二種類がきちんと分けて並んでいた。まるで薬の調合みたいに几帳面だと思う。どちらが甘すぎるかもしれない、とわざわざ言い添えたところまで彼らしい。気遣うなら気遣うとだけ言えばいいのに、あの人はどうしても一言多いか、一言足りない。 琥珀色の飴を一粒口に含む。最初に蜂蜜の甘さがやさしく広がり、すぐあとから喉の奥へすっとミントの
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第2話 優しいふりも出来ない夫⑥

 リュゼリアがぽつりと言うと、ヴィルレオは隣で低く返した。「昔は平気だっただろう」「覚えていらしたの?」「お前は結婚して最初の年、夜でも薔薇を見に出た」 思いがけない記憶だった。 一年目の春、温室から移したばかりの白薔薇の蕾が気になって、リュゼリアは夜着の上にショールを羽織り、中庭へ降りたことがある。風に煽られた枝を支柱へ結び直しているところへ、仕事帰りのヴィルレオが通りかかった。 彼はそのとき、何も言わなかった。ただ「風が強い、戻れ」とだけ言い残して去った。リュゼリアはそれを冷たい叱責だと思い、部屋へ戻って一人で少し泣いた。 でも、彼は覚えていたのだ。「……旦那様は、あのときも覚えていてくださったのですね」「見ればわかることだ」「でも、わたくしは」 リュゼリアはそこで言葉を止めた。言っていいものか迷ったのだろう。けれど、ヴィルレオが静かに待っている気配がした。「あのとき、ただ叱られたのだと思いました」 月明かりのなかで、ヴィルレオの睫毛が一度だけ動く。「叱ったつもりはない」「はい。今ならわかります」「……そうか」 夜の静けさは、昼よりも少しだけ本音を零しやすくするのかもしれない。外では風に揺れた枝が窓をかすめる音を立てていた。飴の甘さはもうほとんど溶け切って、口の中には薄い清涼感だけが残っている。「旦那様」「なんだ」「もし、わたくしが病気でも」 口にした途端、その言葉の不穏さに自分で少し震えた。「……そのときは、どうなさいますか」 愚かな問いだとわかっていた。だが、聞きたかった。義務として看病するのか。それとも適切な療養先へ送り、家のために整えるのか。あるいは、何も変わらないのか。 ヴィルレオは長い沈黙のあと、低く言った。「治させる」 あまりにも彼らしい答えだった。「もし、治らなければ?」 問いを重ねると、彼の眉間が深く寄る。「治るように手を尽くす」「それでも、もし」「そんな仮定は今するな」 鋭い声。けれど怒鳴っているわけではない。むしろ、その鋭さの奥に、ひどく強い拒絶がある。認めたくない未来を前にした人の声。 リュゼリアは目を伏せた。「ごめんなさい」「……また謝る」「だって」「聞くなと言っているわけではない」 彼は一歩だけ近づいた。伸ばしかけた手が、今度は途中で止まらなかった。大きな手
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第3話 飾りの妻①

 その日の朝、空は久しぶりに晴れていた。 数日ぶりに雲が切れ、東の空から差し込む光が屋敷の窓という窓に淡く満ちている。冬の名残を引きずった冷たい光ではあるけれど、雨上がりの庭を洗い立てのように見せるには十分だった。枝だけになっていた薔薇の株にも、よく見れば小さな芽吹きがいくつか覗いている。まだ春とは言いがたいが、冬だけでもない、そんな季節の境目の朝だった。 リュゼリア・ディルクレイドは窓辺に立ち、その庭をしばらく見ていた。 喉の調子は、完全ではないにせよ少し落ち着いている。熱もここ二日は高くならず、咳も薬で抑えられていた。とはいえ、胸の奥には相変わらず薄い不穏が沈んでいる。深く息を吸えば、見えない棘がどこかに触れるような感覚が残るし、長く立ち仕事をすると背骨の内側から力が抜けていく。 それでも今日は、公爵夫人として人前へ出なければならなかった。 王都の名家ばかりが集う、小規模ながら格の高い昼の茶会。主催は王家とも近しいルーデンベルク侯爵夫人。そこで春の慈善行事の顔合わせと、貴婦人たちの非公式な情報交換が行われる。招待客の顔ぶれを見れば、それがただの華やかな茶会ではなく、王都の空気を左右する社交のひとつであることは明らかだった。 本来なら、こうした場にヴィルレオが同席する必要はほとんどない。だが今回は、王都にいる若手貴族たちとの挨拶も兼ねるという名目で、夫婦揃って出席することになっていた。 公爵夫妻として。 その響きに、リュゼリアは胸の内で静かに指先を丸めた。 夫婦。 たしかに法の上ではそうだ。家名も、立場も、外から見えるすべてがそう告げている。けれど、誰も見ていない寝室や食卓の沈黙まで知っている自分にとって、その言葉はきれいに磨かれた器のように感じられる。美しく、冷たく、空っぽだ。「奥様、お支度を始めてもよろしいでしょうか」 背後でアイダが声をかけた。「ええ、お願い」 振り返って椅子へ向かうと、すでに若い侍女たちが衣装や装身具を整えて待っていた。今日のために用意されたドレスは、薄青と銀灰の中間のような繊細な色合いで、歩くたび水面のように光を流す生地が使われている。胸元は上品に閉じ、袖口と裾にだけ細かな銀糸の刺繍が入っていた。公爵夫人としては控えめすぎず、かといって主催者より目立ちすぎもしない、見事に計算された装いだ。 アイダが髪に櫛を
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第3話 飾りの妻②

 礼を言われるたび足りなさを突きつけられる。 数日前に聞いたあの言葉を思い出し、リュゼリアは一瞬だけ喉の奥で息を止めた。だから今は、ありがとうと言わないほうがよかったのかもしれない。けれど、彼に何かを向けられたと感じたとき、礼を言わずにいるほうが不自然に思えてしまう。「馬車の中は冷える。膝掛けを」 ヴィルレオは後ろに控える従者へ短く命じた。「かしこまりました」 それだけでも、彼なりの気遣いだとわかる。わかるから苦しい。 言葉にならない優しさは、言葉がほしいと願う心にはときどき毒になる。 並んで歩くあいだ、二人の会話はほとんどなかった。廊下の端で一礼する使用人たち、玄関ホールへ差し込む白い光、磨かれた大理石の床に映る自分たちの姿。外から見れば、よく揃った美しい夫妻なのだろう。歩幅すら自然に揃っているのだから。 馬車へ乗り込むと、厚い座席の布地から微かな革と木の匂いが立った。従者が外から扉を閉め、車輪が石畳を転がり始める。膝に掛けられたブランケットの温もりが、遅れて足元へ広がった。 馬車の中は静かだった。 向かい合うでもなく、横並びでもない斜めの配置。互いの顔は見えるのに、目を合わせようとしなければ合わない絶妙な距離である。社交の場へ向かう道中としてはちょうどよいのかもしれないが、夫婦としてはあまりにも象徴的で、リュゼリアはときどきこの座席の配置すら皮肉に思える。「体調は」 揺れの合間に、ヴィルレオが言った。「今のところ大丈夫です」「無理はするな」「はい」「顔色が悪くなったら、すぐ下がれ」「茶会の途中でも?」「ああ」 彼は窓の外を見たまま答えた。石造りの街路を流れていく王都の景色が、その横顔に短い影を落とす。「あなたのお隣で、途中で席を外せば、かえって目立ちますわ」「構わない」「公爵家としては困るのではありませんか」「お前が倒れるよりましだ」 あまりに即座の返答だったので、リュゼリアは一瞬、彼の顔を見た。けれどヴィルレオは視線を寄越さない。 そういうところなのだ、と思う。 この人は、本音らしいものをさらりと落とすくせに、相手に受け取る準備をさせてくれない。思わず掴みたくなるものを置いて、すぐに手の届かないところへ離れてしまう。「……承知しました」 それ以上、何も言えなかった。     ◇ ルーデンベルク侯爵家
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第3話 飾りの妻③

「それは光栄ですわ」 けれど胸の内では、薄い硝子が一本、静かにひび割れたような音がした。 夫人のお話をするときは丁寧。 たぶんそれは事実なのだろう。ヴィルレオは外向きの礼節を欠く人ではないし、妻について公の場で軽んじるような真似も決してしない。むしろ必要以上に整った扱いをしてくれる。家名に傷をつけないために。公爵家にふさわしい夫であるために。 でもそれは、愛情とは違う。 そうわかっているのに、周囲の口から「素敵なご夫婦」と囁かれるたび、自分だけが知らない幸福な結婚生活がどこかに存在しているような錯覚に襲われる。 しばらくして、侯爵家の若い令嬢がヴィルレオへ直接話しかける機会を得た。彼女は薄紅のドレスに身を包んだ、まだ二十にも届かない可憐な娘で、明らかに緊張しながらも目を輝かせていた。「ディルクレイド閣下、本日はお目にかかれて光栄です。以前、北方の税制改革について父が大変感銘を受けたと申しておりました」「それは貴殿の父君が柔軟だったからだ」 ヴィルレオはいつもの低い声で答える。愛想はないが、言葉自体は礼を欠いていない。「まあ……そのようなお言葉をいただければ、父も喜びますわ」「伝えるといい」 そこで会話が切れた。令嬢はなお何か話したそうだったが、ヴィルレオが自分から話題を広げることはない。周囲の婦人たちは、その無骨ささえ魅力のひとつとして受け取っているようだった。「閣下は本当に寡黙でいらっしゃるのね」「でも、だからこそ一言が重いのでしょうねえ」「夫人はきっと、あの沈黙も全部わかっていらっしゃるのね」 誰かがそう言って、笑いが起きる。 リュゼリアも笑う。 わかっているか、と問われれば、たしかに誰よりも長く彼の沈黙を見てきたのは自分だろう。けれど、その沈黙の中身を本当に知っているかと問われれば、答えはひどく曖昧だった。 ただ忙しいから黙っているのか。 気遣いをどう言葉にしてよいかわからないからなのか。 それとも、自分へ向ける言葉など本当はほとんど何もないのか。 そのどれもがあり得るから、いつまでも足元が定まらない。     ◇ 茶会の席へ案内されると、中央の円卓のひとつに夫婦で並んで座ることになった。純白のクロスの上には、薄い磁器のティーセットと小ぶりな花器、銀皿に整然と並べられた焼き菓子や果実の砂糖煮。窓辺にはやわらかな
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第3話 飾りの妻④

 妻として当然の務め。 ああ、やはりそうなのだ、と。 彼にとって自分は、“務めを果たしている妻”なのだ。その言葉自体は称賛ですらある。だが、それがすべてでもある。 あなたは公爵夫人として不足なく役割を果たしている。 だから隣に置いておける。 だから外へ見せられる。 だから家名にふさわしい。 リュゼリアはにこやかな表情のまま、ティーカップを持つ指先に少しだけ力を込めた。陶器が指にひんやりと吸いつく。「まあ、閣下ったら」「そういうところですわよねえ」「夫人がお気の毒なくらい愛情表現がお下手」 笑いが起きる。 リュゼリアも、その輪から外れないように小さく笑った。「旦那様は、昔から言葉が少ないのです」 そう言うと、場はいっそう和やいだ。皆が安心するのがわかる。そうだ、この夫婦はうまくいっているのだ、と。夫は不器用、妻は寛容。それは社交界において非常に好まれる構図だった。 けれど、その構図を成り立たせるために、誰がどれだけ胸を削っているのかまでは、誰も考えない。     ◇ 茶会のあと半ば公式な立食の場へ移ると、会話はより自由に広がった。貴婦人たちは小皿を手に集まり、若い貴族たちは窓辺でワインを傾け、年長の侯爵たちは春以降の王都の動向について低い声で語り合う。楽士の音も少しだけ華やかになり、笑い声が高窓へ反響した。 リュゼリアは何人もの婦人と会話を交わしながら、何度か人波の向こうのヴィルレオを見た。彼は常に会話の中心にいるわけではない。むしろ自分から話を回すことは少なく、必要な相手と必要なだけ話し、あとは黙して場を見渡していることが多い。 だが、その在り方自体が彼の価値なのだと周囲は知っている。軽々しい愛想はなくとも、存在そのものが家と権力を背負っている男。だから人は寄ってくるし、寄ってきた人々の視線の先には、当然その妻である自分も置かれる。「リュゼリア様」 声をかけてきたのは、以前何度か会ったことのある若い子爵夫人だった。彼女は淡黄のドレスに身を包み、どこか気の弱そうな笑みを浮かべている。「先日は、孤児院への毛織物の件で本当にありがとうございました。夫が予算を渋っておりましたのに、ディルクレイド公爵家からも後押しいただけたおかげで話が進みました」「そうでしたの。お役に立てたならよかったです」「本当に、リュゼリア様はお優しいか
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第3話 飾りの妻⑤

 ヴィルレオは一歩だけ位置をずらし、外からは二人が穏やかに語らっているように見える角度へ立った。肩の影がわずかに重なる。「これでいいか」「……はい」「それで、何の話だ」 結局逃がしてはくれないらしい。 リュゼリアは唇の裏をほんの少し噛んだ。痛みはない。ただ、言葉を慎重に選ぶための癖だった。「皆さまが、あまりに『素敵なご夫婦』と仰るものですから」「事実と違う、と?」 あまりにも真っ直ぐな問いで、息が詰まりそうになる。「そうは申しません」「だが、飾りの妻だと思った」「……そう聞こえましたの」「違うなら否定しろ」「違わないから困っておりますの」 ぽろりと出た本音は、自分でも驚くほど静かだった。責める調子でも、泣きそうな声でもない。ただ、冷えた事実のように口をついて出た。 ヴィルレオの表情が変わる。大きくではない。けれど、何かを見落としていた人の目になる。「あなたのお隣に立って、皆さまへ微笑みかけ、何を問われても綺麗に答える。そうしている時のわたくしは、きっととても“正しい妻”なのでしょう」 リュゼリアは窓の外を見たまま続けた。顔を見てしまうと、言えなくなりそうだった。「公爵家にふさわしい装いで、失言もなく、社交の場で恥をかかせず、あなたの冷たさを柔らかく見せるための役目をきちんと果たす。……それなら、たしかに飾りとしては上出来ですわ」 風がレースを揺らし、冷たい空気が頬に触れる。少しだけ頭が冴える一方で、言葉を止める理性も薄くなっている気がした。「皆さまは、わたくしたちをご覧になって、美しいと仰るでしょう。きっと本当にそう見えているのです。けれど、そう見えることと、そうであることは別です」「リュゼリア」「わたくしは、あなたの隣で美しく立つことには慣れました」 その一言を言ってしまった瞬間、自分の胸がどれほど冷えていたのか、ようやくわかった気がした。 慣れた。 それはつまり、諦めたということだ。 期待を持たず、傷つくことに慣れ、外から与えられる役割を受け入れることに慣れた。 ヴィルレオはしばらく黙っていた。広間では笑い声が上がり、誰かのグラスが軽く触れ合う音がした。こちらだけが別の季節にいるようだった。「俺は、お前を飾りとして扱ったつもりはない」 やがて彼はそう言った。 リュゼリアは小さく笑う。悲しいからではなく
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第3話 飾りの妻⑥

 窓辺で並び、低く言葉を交わし、距離を保ちながらも他人には親密に見えるその姿を。たぶん今夜のうちに、社交界のどこかで「ディルクレイド公爵夫妻は今日も麗しかった」と話されるのだろう。夫は相変わらず無口だが、夫人を大切にしている様子だった、と。 その一部始終を、自分たちは演じていたわけではない。少なくともリュゼリアにとっては本気の痛みだった。 でも外から見れば、それさえ美しい夫婦の一場面にされてしまう。「……戻りましょう」 リュゼリアが先に言った。 もうこれ以上ここにいては危ない。気持ちが崩れてしまいそうだった。 ヴィルレオは何か言いたげにしたが、結局短く頷くにとどまった。「ああ」     ◇ そのあとも茶会は滞りなく続いた。 リュゼリアは最後まで公爵夫人であり続けた。誰かの噂話に上品に笑い、慈善活動への賛同を取りまとめ、主催者へ賛辞を述べ、若い令嬢の緊張を和らげ、年配の婦人へ席を譲る。どの瞬間も、非の打ちどころなく整っていたと思う。 だがそのぶん、帰路の馬車に乗り込んだ時には、背筋の奥から力が抜けていた。 扉が閉まり、外のざわめきが遠のく。厚い座席へ体を預けた途端、体のどこかが音もなく沈んだような感覚があった。窓の外では夕方の街路が流れていく。暮れかけた空は薄い金色を帯び、石畳には長い影が伸びていた。 馬車が動き出してしばらく、二人とも何も言わなかった。 社交の場を終えた直後の沈黙はいつもある。だが今日は、その沈黙がやけに密だった。窓辺での会話が、まだどこかに張り付いている。「喉は」 やがてヴィルレオが低く訊く。「大丈夫です」「顔色が悪い」「いつものことですわ」「いつものことにするな」 その声音はきつくなかった。けれど、返す力も残っていなくて、リュゼリアは目を伏せる。「……はい」 馬車が大きな石の継ぎ目を越え、小さく揺れた。その拍子に胸の奥で詰まっていたものが少しだけ動き、リュゼリアは唇を押さえた。咳をしたくない。今ここで咳き込めば、ヴィルレオの表情がまた固くなるのがわかっていた。 だが喉は言うことを聞かない。「っ、……げほ」 小さく漏れた一声に続いて、二度、三度と咳が出る。以前ほど激しくはないが、胸の深いところを擦るような咳だった。 ヴィルレオがすぐ手を伸ばす。躊躇いもなく、座席脇に備えてあった水差しからコップ
last updateLast Updated : 2026-06-24
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