All Chapters of 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました: Chapter 61 - Chapter 64

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第11話 届かない視線④

 寝室が静まり返った。 言ってしまった、と思った。だがもう引き返せない。「皆はまだ、“療養へ行かれるだけ”だと思っております。旦那様だって、そう思いたいのでしょう。けれど奥様だけが、違うお支度をなさっている」 涙が次々と頬を伝う。拭っても拭っても止まらない。「わたくしにはわかります。奥様が、本当に……本当に去るおつもりなのだと」 最後のほうは、ほとんど声にならなかった。 リュゼリアはしばらく黙っていた。いつものように「泣かないで」と宥めるかと思った。あるいは「何を言っているの」とやんわり否定するかと。だが、彼女はそうしなかった。 ただ、ゆっくりと手を伸ばす。 アイダは反射的に身を屈めた。その手が、自分の頬へ触れる。熱は高くない。けれど病んだ人の手特有の、薄く透けるようなぬくもりがあった。「……ごめんなさい」 リュゼリアが言う。 その声には、いままでの穏やかさとは少し違う、ひどく深い疲れが滲んでいた。「あなたにだけは、隠しきれなかったわね」 アイダは泣きながら首を振る。「隠していただきたかったのではございません」「ええ、わかっている」「では、どうして」 リュゼリアはアイダの頬を撫でる手をそのまま、少しだけ力を込めた。「わたくし、怖いのよ」 その言葉に、アイダは息を呑む。 やっと、やっと本音が出たと思った。「とても、怖いの」 リュゼリアは静かに続ける。「死ぬことも。弱っていくことも。旦那様の顔を見るたび、いまさら欲しくなってしまう自分も。全部、怖い」 涙は出ていない。だが、その声の奥には、泣き叫ぶよりずっと深い震えがあった。「だから、平気な顔をしているの。そうしていないと、立っていられないもの」 アイダの喉から、小さな嗚咽が漏れる。「でもね」 リュゼリアはほんの少しだけ笑った。ひどく哀しい笑みだった。「平気な顔をしているうちに、本当に決まってしまったの」「……何がでございますか」「去ろう、って」 それは囁きのように小さかった。「旦那様の愛を受け取りながら、足りないまま死ぬのは、わたくしには無理だと思ったの。だったら最後くらい、自分で決めて、自分のままでいたいって」 その言葉を聞いた瞬間、アイダはもう堪えられなかった。 顔を覆って泣いた。侍女としての礼儀も何もかも忘れて、ただ涙が溢れた。長く仕えてきた
last updateLast Updated : 2026-07-20
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第11話 届かない視線⑤

 扉が開く直前、リュゼリアは低く言う。「泣かないで、アイダ」「……無理でございます」「では、せめて笑ってちょうだい」 そんなの無理だ、と言いたかった。けれどその時にはもう扉が開き、ヴィルレオが入ってきた。 彼の視線は最初にリュゼリアへ、次にアイダへ向く。アイダはなんとか頭を下げたが、目元が赤いことくらいは一目でわかっただろう。「何かあったか」 低い声。 ただの確認の口調だったが、青灰色の瞳の奥には鋭いものがある。見逃すつもりのない目だ。 アイダは咄嗟に何も言えず、リュゼリアが先に答えた。「少し、昔の話をしていただけよ」 ヴィルレオの目が、ほんの僅かに細まる。信じていないのがわかった。だがその場で追及はしない。「そうか」「ええ」「医師が薬を変える」 彼はそれだけを告げると、机の上の文箱へふと目を留めた。開かれたままの紙束。名前を書きつけた小さな短冊。そこにあるものが何か、彼がどこまで察したのかはわからない。 ただ、その視線が一瞬だけ鋭くなり、すぐ消えたことだけはアイダにもわかった。「準備はあとでいい」 ヴィルレオが言う。「休め」「……はい」 リュゼリアは穏やかに頷く。 その穏やかさが、いまはアイダには少しだけ恐ろしい。もうこの人は、ヴィルレオの前でもほとんど乱れない。乱れないまま、静かに本気で去ろうとしている。 アイダだけが、その本気を見てしまった。 見てしまったからこそ、もう後戻りはできない。南へついていき、この人の決意ごと支えるしかないのだと、涙の残る目でヴィルレオの横顔を見ながら、アイダは改めて悟った。     ◇ その夜、寝室の灯りが落とされたあとも、アイダはしばらく眠れなかった。 寝椅子へ横たわっても、まぶたの裏には昼間の光景ばかりが蘇る。文箱の紙。リュゼリアの静かな声。怖いのよ、と言ったあの一言。そして、去ろうって決まってしまったの、と零した時の、ひどく穏やかな顔。 泣いたのは自分だけだった。 奥様は泣かなかった。 それがどうしようもなく悲しかった。 たぶん、泣く段階すらもう過ぎてしまったのだろう。泣けば誰かに縋ってしまう。縋れば戻りたくなってしまう。だからあの人は、穏やかな顔を崩さず、静かに決めて、ひとつずつ整えていく。 それがどれほど強くて、どれほど痛ましいことか。 暗闇の中、アイダは
last updateLast Updated : 2026-07-20
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第12話 さよなら、公爵家①

 出立の朝は、ひどく静かだった。 まだ夜の名残が空の底へ薄く沈み、東の端だけが水で溶いた銀のように明るみ始めたころ、ディルクレイド公爵家の屋敷ではすでにいくつもの灯りが入っていた。玄関ホールの燭台、厩舎へ続く回廊の壁灯、裏口の荷運び口に吊るされた小さなランプ。風は冷たいが、真冬のような刺す冷たさではない。春の手前で足踏みする季節特有の、湿り気を含んだ冷えだった。 庭の土は昨夜の露を吸い、まだ眠そうな匂いを立てている。薔薇の枝は黒く細く、葉のないまま朝を迎えていたが、先端にだけふくらんだ芽がいくつも見えた。あと少し、あとほんの少し暖かさが足りれば、彼らは迷いなく次の季節へ進むのだろう。 リュゼリアは窓辺に立ち、その庭を見ていた。 肩には淡い灰青のショール。身体を締めつけないやわらかな旅用のドレス。髪は飾りをほとんど使わず、後ろで低くまとめられている。鏡の中の自分を見たとき、あまりにも軽い姿だと思った。公爵夫人が旅立つにしては、身につけるものも少なすぎる。真珠の耳飾りひとつ。細い腕輪ひとつ。指には、公爵夫人としての家紋入りのリングだけ。婚礼の指輪は、結局屋敷に置いたままだ。 持っていく荷は最低限だった。 衣装箱は二つだけ。書物を入れた小箱が一つ。薬や身の回りのものをまとめた革鞄。刺繍道具の小さな包み。母からもらったレースのハンカチの束。少女時代から持っていた文箱の中から、どうしても手放せなかった紙片だけを抜き取って、薄い封筒に移し替えたもの。 それだけで、三年間暮らした公爵家を出るのだと思うと、奇妙な気分だった。 少なすぎる、と感じる一方で、これ以上持っていくべきものが何なのか、自分でもよくわからない。豪奢な夜会服も、季節ごとの扇も、来客用の装身具も、温室の記録帳も、屋敷内の細かな台帳も、何も持っていかない。公爵夫人として必要だったものの大半は、この屋敷に置いていくことにしたのだ。 それはつまり、自分がこの家に残していくものと、持ち出せるものの線引きでもあった。「奥様」 背後からアイダの声がする。「お体は、いかがですか」「……少し重いわ」 正直に答えると、アイダは寝台の上に用意していた薬湯を差し出した。「出立の前にもう一度、先生のお薬を」「ええ」 器を受け取る指先が、少しだけ冷えている。湯気の向こうに立つアイダの顔は、いつも通り整って
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第12話 さよなら、公爵家②

「おはよう、お母様」「ええ……おはよう」 母は笑おうとした。だがうまくいかず、目尻だけが先に濡れる。侯爵夫人としての体面もある。ここで取り乱せば屋敷じゅうの空気が崩れることもわかっている。だから、唇の端を少しだけ上げて、泣きそうなまま娘を見つめるしかない。 父は少し離れた位置に立ち、いつもより硬い顔で言った。「別邸の環境は整ったと聞いた。医師も信頼できる者だ」「ええ。旦那様がよく手配してくださいました」 その名前を口にすると、父の目の奥に何かが動く。娘の夫をどう受け止めるべきか、いまだ決めかねている顔だった。余命を告げられたあと急に娘へ執着を見せ始めた男。だが、その執着が嘘ではないことも、侯爵はこの数日で理解してしまったのだろう。「……無理はするな」 最終的に父が言えたのは、それだけだった。「はい」「言いたいことがあれば、何でも書状を送れ」「ええ」「どんなことでもだ」 その一言に、リュゼリアは少しだけ目を伏せた。どんなことでも。もし、自分が戻らぬ覚悟をさらに固めたとしても、という意味なのだろうか。そこまでは読み切れない。けれど父なりに、娘の決意の深さを感じ取っているのだとわかった。 母が手を強く握る。「寒かったらすぐお言いなさい。薬を飲んでも咳が続くなら我慢してはだめ。夜、眠れなかったら……」「お母様」 リュゼリアはやわらかく笑う。「ちゃんとします」 その言い方があまりにも昔と同じで、母の目からついに涙がこぼれた。けれど彼女はすぐ扇で顔を隠し、「困ったわね」とだけ小さく言った。     ◇ 玄関ホールには、最小限の荷がすでに運ばれていた。 革張りの小さなトランク二つ。衣装箱二つ。文箱を入れた細長い包み。薬箱。旅用の毛布。どれも大公爵家の女主人が長期の療養へ移るにしては少なすぎる。使用人たちもそれを見ているからこそ、なおさら胸騒ぎを覚えるのだろう。 リュゼリアはその荷へ目をやり、ほんの短く息をついた。 本当に少ないわね、と自分でも思う。 だがそれでいい。たくさん持っていけば戻ってくる前提になる。戻るつもりがないわけではない。それでも、戻ることを当然として荷を整える気にはなれなかった。 ホールの奥には、クラウスをはじめとした主要な使用人たちが控えていた。侍女頭。料理長。庭師。会計係。長く屋敷を支えてきた者たちの顔が並
last updateLast Updated : 2026-07-22
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