All Chapters of 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました: Chapter 41 - Chapter 50

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第7話 離縁の申し出③

「……あの子らしいわ」 意外にも、そう呟いたのは母だった。 ヴィルレオが顔を向けると、マルグリット侯爵夫人は泣きそうな目をしながらも、どこか諦めたように微笑んでいた。「リュゼリアは昔から、限界まで耐えて、もう駄目だと決めた時には戻らない子でしたもの」 その言葉が、ヴィルレオの胸にさらに深く刺さる。 戻らない。 彼女自身もそう言っていた。いったん決めたら覆らない、と。穏やかで、柔らかく見えるくせに、その芯だけは頑固なことを、彼は結婚してから何度も見てきた。自分のこととなるとひたすら後回しにするくせに、一度「ここまで」と決めた線だけは誰にも越えさせない。「だが、受けるつもりはない」 ヴィルレオは低く言った。 侯爵がゆっくりと目を上げる。「娘の望みでも、か」「そうだ」「なぜだ」「離したくないからだ」 その答えに、侯爵夫妻は一瞬言葉を失った。 もっと理屈を並べるかと思われたのかもしれない。家のためだの、療養のためだの、公爵家としての判断だの。だがいまのヴィルレオには、そんなものを飾る余裕はなかった。「いま離縁などすれば、あいつは本当に俺から何も受け取らずに死ぬ気でいる」 言いながら、自分の声が少しずつ荒くなるのがわかった。「そんなことをさせるつもりはない」「それは、あなたの都合ではありませんか」 母の問いは静かだった。だが静かだからこそ鋭かった。 ヴィルレオは反射的に言い返しかけて、できなかった。 都合だ。 もちろん都合だろう。自分が後悔したくないという思いも、きっとある。いや、あるに決まっている。リュゼリアが言った通り、彼女の残り時間を自分の遅すぎた愛で埋めようとしているのだとしたら、それはどこまでも身勝手だ。 だが、身勝手でも何でも、いまはそれを手放せなかった。「……そうだとしても」 ようやく絞り出す。「離せない」 侯爵は長く沈黙した。暖炉の火がひとつ崩れ、乾いた音がした。「旦那様」 やがて彼は重い声で言う。「あなたが娘を愛しているのは、いまの言葉でわかりました」 その言葉に、ヴィルレオはわずかに眉を寄せる。愛している。その語を他人の口から出されても、なぜか否定する気は起きなかった。起きないこと自体が、もう答えなのだろう。「だが、娘はずっとその愛を知らずにきたのですな」 侯爵は続ける。「そこを、どう
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第7話 離縁の申し出④

「あなた、本当にあの方をよくわかっているのね」「長くおそばで見ておりますので」 アイダは布巾を畳みながら言う。「ですが、断られたからといって、奥様のお気持ちが消えるわけではございません」「ええ」「旦那様はたぶん、受け流したおつもりなのでしょう」 その言葉に、リュゼリアはふと目を上げた。「受け流す?」「はい。大事に受け止めれば、ご自分が壊れるとおわかりだから、まずは“病で弱っている奥様の混乱”として扱おうとなさるかもしれません」 あまりにも的確で、リュゼリアは小さく息を呑んだ。 そうかもしれない、と思った。 ヴィルレオは断ると言った。だが、その後の目の色は、怒っているというより、聞いてしまったこと自体をどこかで拒んでいるようにも見えた。離縁の願いを本気のものとして正面から受け止めることは、彼にとってあまりにも痛い。だから、まずは熱と動揺のせいだとでも思い込みたいのかもしれない。 その考えに至った瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。 受け流される。 覚悟して口にした言葉が、真正面からぶつかることさえ許されず、ただ「病んで弱っている女の一時の混乱」として片付けられるのだとしたら、それは拒絶されるよりも深く心を削る。「……そうね」 リュゼリアはゆっくりと頷いた。「たぶん、そうなのだと思うわ」 好きでした、とまで言ったのに。愛など要らないと泣いて言ったのに。それでもなお、彼の中で整理のつかないものは、まず理性の手で片隅へ寄せられてしまう。 それは彼らしい。 そして、ひどく残酷だ。     ◇ 夕方、ヴィルレオは再び寝室へ現れた。 外はすでに日が傾き、窓の向こうは紫がかった薄闇へ沈み始めている。寝室のランプには火が入り、暖炉の炎がやわらかく床へ揺れていた。そんな中で、彼だけが昼と変わらずきちんとした姿で立っている。感情の激しいやりとりがあったあとのはずなのに、顔色も声色も整っていた。まるで何事もなかったかのように。 その整い方が、リュゼリアの胸を少しだけ冷やした。「具合はどうだ」 最初の言葉は、やはりそれだった。「……朝とあまり変わりません」「薬は飲んだか」「はい」「実家の侯爵夫妻が来ている。今日は疲れているだろうから、面会は明日に延ばした」 淡々と告げられる言葉はどれも必要なことばかりだ。公爵として、夫として、療養のた
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第7話 離縁の申し出⑤

「わたくしは、弱っているからこそ決めているのです」「違う」「違いません」「違う」 また同じ応酬になる。けれどもう、昼間ほど熱はなかった。冷えていた。ひどく。「旦那様は、わたくしの願いを、正面からは見てくださらないのですね」「見ている」「でしたら」「だが、認めない」 きっぱりとした声。 その断言に、リュゼリアは一瞬だけ目を閉じた。 認めない。 受け流すよりも残酷な言葉だった。見たうえで、認めない。つまり、自分の願いがどれほど切実であっても、この人はそれを踏み越えてでも手元へ置こうとするのだ。 それが怖かった。 うれしいと感じてしまう自分が、もっと怖かった。「……本当に、横暴でいらっしゃるのね」「知っている」 昼と同じ答え。まるで少しも変わらない。けれど本当は変わっているのだろう。彼は表面だけ冷静に整え、内側の動揺をどうにか押し込めて立っている。そうしなければ、いまにも壊れてしまうのかもしれない。「別邸の件はそれで進める」 ヴィルレオはそれ以上その話を広げず、淡々と告げた。「必要な荷は絞る。衣服も薬も向こうで揃う。お前は今夜と明日、少しでも休め」「……承知しました」 その返事をした自分の声が、ひどく他人行儀に聞こえた。公爵と公爵夫人の会話のようだ。ついさっきまで、離縁を願う妻と、それを拒む夫として話していたはずなのに。 ヴィルレオはたぶん、そのことに気づいている。だが何も言わなかった。言えないのだろう。彼もまた、いまは表面の冷静さへ縋るしかないのだ。「何かあれば、夜中でも知らせろ」「はい」「息苦しさが増したら無理をするな」「はい」「食事は」「少しなら」「少しでいい、口にしろ」「はい」 必要な会話だけが整然と並ぶ。完璧な配慮。非の打ちどころのない気遣い。公爵夫人を療養へ送り出す夫の、もっとも正しい振る舞い。 胸が、少しずつ冷えていく。 これはもう、受け流されたのだと思った。自分の言葉も、涙も、好きだと言ったことさえ。彼の中でまだ片づけられないから、とりあえず今はなかったことにして、現実的な段取りだけが前へ進んでいく。「……旦那様」 最後にもう一度だけ、リュゼリアは呼んだ。「何だ」「わたくしの言葉は、消えませんわ」 ヴィルレオの肩が、ほんのわずかに強張る。「消したつもりはない」「そうであれば
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第8話 静かな決意①

 翌朝、リュゼリアは夜明けより少し遅れて目を覚ました。 眠れたのかと問われれば、眠れたとは言いがたかった。夜のあいだ何度も浅いまどろみと覚醒を繰り返し、そのたびに胸の奥で息が擦れるような感覚と、喉の奥へ残る薬の苦みと、途切れかけの夢の切れ端ばかりが意識へ浮かび上がってきた。けれど、朝になってみると、昨日まで胸の内を満たしていたような荒い揺れは少しだけ引いていた。 かわりにあったのは、ひどく静かな、深い場所へ沈んだような感覚だった。 離縁の願いは受け流された。 受け流されたこと自体が痛かったし、その痛みはまだそこにある。けれど、その痛みの表面で泣き喚く段階はもう過ぎたのだと、起き抜けのぼんやりした頭でもわかった。 ヴィルレオは受けないと言った。 いまは療養が先だと。 ならば、自分は自分で進めるしかない。 それは開き直りではなく、もっと静かな決意だった。あの人が受け取らなくても、この願いが本物であることに変わりはない。ならば、口で何度もぶつけるだけではなく、自分の手で一つずつ整えていくしかない。 公爵家を去る準備を。 たとえ今は名目が療養であっても、リュゼリアの中ではすでにそれは別の意味を持ち始めていた。 寝台の上で上体を起こすと、胸の奥に鈍い痛みがあった。夜のあいだ少し楽だった呼吸も、起き上がるとまた深いところでざらつく。それでも昨夜のように熱は高くない。喉に薄くひっかかる咳をひとつ飲み込み、リュゼリアは枕へ背を預けたまま窓のほうを見る。 カーテンの隙間から差し込む朝の光は、冬を抜けたばかりの白さをしていた。冷たいが、どこか透明で、長く閉ざされていたものをひらいていくような色だった。庭の木々の枝にはまだ葉がない。それでも先端にふくらみかけた芽がいくつも見える。春はまだ遠いのに、完全には遠くない。 半年。 その言葉は、朝になるとさらに現実味を帯びた。半年という短さは、夜のなかではあまりに遠く非現実だったのに、朝の光の中で考えると、季節の移ろいの速さとして胸へ迫ってくる。庭の薔薇が咲き、花びらを落とし、若葉が濃くなるころには、自分はもうこの屋敷の窓からその景色を見ていないのかもしれない。「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」 扉の向こうでアイダの声がした。「ええ。起きています」 入ってきた彼女は、水差しと薬の盆を持っていた。寝椅子で仮眠
last updateLast Updated : 2026-07-07
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第8話 静かな決意②

「五着で、よろしいのでございますか」「ええ。どうせ社交には出ないもの」 その一言に、侍女のひとりがほんのわずかに顔を曇らせたのが見えた。公爵夫人が、社交に出ない。いままではあり得なかった言葉だ。だがもう、それが現実になろうとしている。 アイダが淡い灰青の室内着、柔らかな生成りの昼用ドレス、軽い織りのショール、南向けの薄手のケープを選び出していく。その動きは無駄がなく、リュゼリアの体調と南の気候を考えた上で最善のものを取っているのだとわかる。「夜着は」「三組で十分でしょう。洗濯も向こうで回ります」「はい」「宝飾は最低限だけで。真珠の耳飾りと、細いブレスレットひとつ。大ぶりのものは全部置いていきます」 その言葉に、今度ははっきりと別の侍女が顔を上げた。彼女は公爵家で雇われた若い娘で、リュゼリアへ敬意は払うが、ごく近しい存在ではない。それでも、公爵夫人が大量の宝飾を置いていくという事実に、何か不穏を感じたのだろう。 南の別邸へ行くのは、あくまで療養だ。ならば、豪奢な宝石を持っていかないのは理にかなっている。だが、いまのリュゼリアの言い方には、それ以上の静かな切断があった。「ご婚礼の際のお品も、でございますか」 アイダが確認する。「ええ。とくに、婚礼に合わせて公爵家側が誂えてくださったものは、全部こちらへ」 リュゼリアはそう答えたあと、自分の声が少しだけ硬くなっていることに気づいた。だが言い直さない。 婚礼の際に贈られた青白い宝石の首飾り。夜会用の髪飾り。銀の刺繍を施した正装用の帯。どれも公爵夫人として隣に立つための品だった。必要がなくなったわけではない。けれど、自分はもうそれらを南へ持っていきたくなかった。 着飾る妻として病床へ移るのではなく、自分の残り時間を少しでも軽い身で引き受けたかった。「こちらの箱へおまとめして、鍵を」 アイダが言いかけたところで、リュゼリアはふと視線を棚の奥へ向けた。 いちばん上の段、小さなベルベットの箱が置かれている。そこには普段身につけることのない、小さな指輪がある。婚姻の証として一度だけ正式な儀式で嵌められ、そのあとはほとんど箱の中にあったままの指輪だ。公の場で必要とされるのは家紋入りの公爵夫人のリングのほうで、あの儀式の指輪は象徴としてしか機能していない。「……あれも、出して」 アイダが視線を追っ
last updateLast Updated : 2026-07-09
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第8話 静かな決意③

 最後まで取り乱さないことは、たぶん自分に残された最後の矜持だった。 泣きながら出ていくことはできる。叫びながら責めることも、本気でやろうと思えばできるかもしれない。だが、自分はそういう女ではない。そういう終わり方をしたくもない。去るのなら、せめて静かに、きちんと、自分の足で去りたかった。 帳面へ視線を落としたまま、ふいに喉の奥がひりつく。次の瞬間、込み上げた咳に耐えきれず、リュゼリアは口元を押さえた。「っ、げほ……っ、げほ」 胸が痛い。呼吸が細く折れる。アイダがすぐ水を差し出し、背を支えようとする。「もう、ここまでです」「まだ、あと少し」「駄目です」「でも」「奥様!」 珍しく強い声だった。 その時、衣装部屋の扉の外で靴音が止まる。ノックもなく扉が開いた。ヴィルレオだった。 彼は部屋の光景をひと目見て、表情をなくした。 開け放たれた箪笥。選別された衣装の山。分けられた宝飾箱。帳簿の束。そして咳を堪えきれずに椅子へ沈み込んでいるリュゼリア。「何をしている」 ひどく静かな声だった。 その静けさがかえって怖いほどだった。アイダも若い侍女たちも一斉に背筋を正す。衣装部屋の空気が一気に凍る。「荷造りを」 リュゼリアが答えると、ヴィルレオの視線が机上の帳簿へ落ちる。「これが荷造りか」「南で必要なものと、こちらへ残すものを」「帳簿まで触る必要はない」「わたくしが整理したほうが」「必要ない」 きっぱりと切られた言葉に、リュゼリアはゆっくり顔を上げた。 ヴィルレオは衣装部屋の中央へ歩み寄る。床に並んだ箱のひとつを見下ろし、その中に入れられた婚礼用の宝飾一式へ目を留めた。青白い石の首飾り、夜会用の帯飾り、婚礼の指輪の箱。 彼の喉がわずかに動く。「……持っていかないのか」 誰にともなく、だが確かにリュゼリアへ向けた問いだった。「必要ありませんもの」「療養先でも必要な場はある」「ないでしょう」 リュゼリアは静かに言う。「南では、公爵夫人として人前へ出ることもございませんし」 その返答に、ヴィルレオは数秒黙った。たぶん彼も理解したのだろう。これは単なる療養の荷造りではない。彼女が、自分の中で、公爵夫人であるものをひとつずつ切り離しているのだと。「……外へ」 ヴィルレオが低く言った。「皆、下がれ」 アイダは一瞬リュゼ
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第8話 静かな決意④

 リュゼリアは椅子の肘へ指を置き、息を整えた。「それでも、やめません」 静かな声だった。けれど、たぶんこれまでのどんな言葉よりも揺るがなかった。「離縁のことも、荷物のことも、引き継ぎのことも。わたくしは自分で進めます」 ヴィルレオはしばらく何も言わなかった。風が窓の外を掠め、部屋の隅のレースがわずかに揺れる。衣装部屋の静けさは、なぜか寝室よりもずっと冷たく感じられた。「……俺が止めてもか」「はい」「命じても」「はい」「お前は」 彼は言いかけ、途中で言葉を切る。「本当に、戻る気がないのだな」 その問いに、リュゼリアはすぐには答えなかった。 戻る気がない。そう言い切れるほど単純ではない。自分だって、本当はこの屋敷へ戻りたい気持ちがまったくないわけではない。健康な体で、なんでもない朝に、あの食卓へ座り直せるなら。最初からやり直せるなら。そんな願いが欠片もないとは言えない。 でも、それはもう現実ではない。「……いまのままでは、戻れません」 ヴィルレオの表情が微かに動く。「それが答えですわ」 長い沈黙が落ちる。 やがてヴィルレオは一歩、また一歩と歩み寄り、リュゼリアの前で膝を折った。彼が椅子に座るでもなく、立ったまま見下ろすでもなく、そうして視線を合わせてくるのは珍しい。近い。近すぎる。けれど逃げられない距離ではなかった。「……好きだと言ったな」 低い声。 突然のその言葉に、リュゼリアの呼吸が止まりそうになる。「昨日のことです」「昨日のことだから消えるわけではない」「旦那様」「聞くなと言ったのはお前だ」 彼の青灰色の瞳が、真っ直ぐこちらを射抜く。「だから、あの先はまだ言っていない」 リュゼリアは指先を強く握った。心臓がひどく速い。そんな話をいまここでされては困る。困るのに、目を逸らせなかった。「だが、お前がそれでも去る準備をするのなら」 ヴィルレオは続ける。「俺も、それに対して黙って立っているつもりはない」「それは、わたくしを止めるという意味ですか」「そうだ」 即答。 その変わらなさに、胸の奥が痛くもあり、少しだけ可笑しくもあった。どこまでもこの人は真っ直ぐで、どこまでも自分の執着に不器用だ。「でしたら、わたくしも黙って止められるつもりはありません」 返すと、ヴィルレオの口元がほんの僅かに動く。笑い
last updateLast Updated : 2026-07-11
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第9話 いなくなる前の日常①

 その朝、リュゼリアはひどく穏やかな顔で目を覚ました。 よく眠れたわけではない。夜のあいだに何度か胸の痛みで目を覚まし、そのたびに喉へ上がってくる乾いた咳をどうにか押し殺し、冷たくなった指先をブランケットの中へ押し込んでまた目を閉じた。そうして断片的にしか休めていないはずなのに、鏡の前に座った彼女の顔には、ここ数日の青白い疲労とは別の静けさがあった。 静かすぎる、とアイダは思った。 朝の光はまだ薄く、寝室のレースカーテンを透かして床へ落ちた色は、水をひと匙垂らした牛乳のように淡い。暖炉の火はすでに落ち、灰の奥だけがかすかに赤い。部屋には薬草を煎じた匂いと、洗い立てのリネンの乾いた香りと、夜の終わりにだけ漂う静かな冷たさが残っていた。 リュゼリアはいつものように髪を梳かれ、いつものように顔を洗い、いつものように淡い色の室内着へ袖を通した。声も穏やかで、動作も落ち着いている。ただ一点だけ違っているのは、すべてが整いすぎていることだった。 熱を出した病人が朝から無理をしているというより、何かを決めきった人間だけが持つ、不自然なまでの静けさ。「奥様、本日はなるべく」「ええ。無理はしないわ」 アイダが口を開きかけると、先回りするようにリュゼリアは答えた。そして鏡越しに、ごくやわらかく微笑む。「でも、朝の報告だけは受けるつもりよ。今日で最後になるわけではないにしても、急に何もかも手放すのはよくないもの」 その言い方に、アイダは喉の奥が少しだけ詰まるのを感じた。 最後になるわけではない。 そう言っているのに、声音の奥にはもう別れの匂いがした。本人はそれを隠しているつもりなのかもしれない。だが、長く彼女を見てきた者にはわかる。これはただの穏やかさではない。静かな決意が、表情の下へ薄く張りついている。「クラウスへ伝えて、いつもの時刻に参るよう申しつけます」「お願い」 リュゼリアは窓のほうを見た。 庭はまだ朝霧をわずかに抱いている。裸の薔薇の枝は細く黒く、朝の光の中で繊細な影を地面へ落としていた。いまは何も咲いていない。けれど、よく見れば節々はかすかに膨らんでいる。芽吹く準備をしているのだ。「今日はよいお天気になりそうね」「ええ」「南へ行く日も、このくらい晴れてくれればいいのだけれど」 あまりにも普通の会話だった。 南へ行く日。療養のための移動
last updateLast Updated : 2026-07-13
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第9話 いなくなる前の日常②

 その言葉が、ひどく静かに落ちた。 屋敷の台帳はここへ残してください。 つまり、自分はもう公爵家の内側にあるものを持っていかないのだと、そう宣言したのに等しかった。療養先へ一時的に移るだけの女主人なら、むしろ台帳の控えを持ち、必要に応じて指示が出せるよう整えるはずだ。だが彼女はいま、それを明確に断った。 クラウスの喉仏が小さく動く。「……承知いたしました」「引き継ぎの件で何か困ることがあれば、南へ書状を。お返事は遅れるかもしれませんけれど、目は通します」 それもまた、ごく自然な言い方だった。だがそこに含まれているのは、あくまで「助言」であって「統率」ではない。リュゼリアは自分の役目を少しずつ、自分の手で剥がし始めている。 そのことに、部屋にいる誰もが気づいていた。     ◇ 小応接間を出たあとの廊下で、若い侍女がひとり泣きそうな顔をして立ち尽くしていた。 まだ十代の半ばで、先月ようやく奥方付きの補佐へ回されたばかりの娘だ。細い肩を小さく縮め、手にしたリネンの束を抱きしめるようにしている。通りすぎるつもりだったリュゼリアは、その顔色を見て歩みを止めた。「どうしましたの」 声をかけられた侍女は、飛び上がるように顔を上げた。「お、奥様……いえ、その、なんでも」「なんでもない顔ではありませんわ」 リュゼリアは笑う。いつもの、穏やかな笑みだった。「叱るつもりではありませんから、教えてちょうだい」 娘は唇を引き結び、しばらく耐えるようにしていたが、やがて声を震わせた。「……皆が、怖いと申していて」 アイダが横で息を止める気配がした。 だがリュゼリアは表情を変えなかった。「何が?」「奥様が、です」 言ってしまったあとで娘は青ざめ、あわてて頭を下げた。「も、申し訳ございません! 違うのです、そういう意味ではなくて、ただ、奥様があまりにもいつも通りでいらっしゃるから、その、皆……」 声がうまく続かない。けれど、言わんとしていることは痛いほど伝わった。 あまりにもいつも通り。 だから、怖い。 泣き崩れて取り乱してくれたほうが、まだこちらもどう振る舞えばよいかがわかる。だがリュゼリアは違う。余命を告げられ、南へ療養へ向かう準備をし、離縁の願いまで口にしていながら、朝の報告を受け、指示を出し、穏やかに微笑んでいる。そのこと
last updateLast Updated : 2026-07-13
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第9話 いなくなる前の日常③

 その場にいた下働きの娘たちも、手を止めるまいとしながら、ちらちらとこちらを窺っていた。奥方が厨房へ礼を言いに来ること自体が珍しいのに、その声がどこか「今までありがとう」の響きを帯びていることを、誰もが感じ取ってしまうからだ。「南でも、あまり香りの強いものは避けてくださいませ。わたくしより、胃が驚いてしまうでしょうから」 リュゼリアが微笑んで言うと、料理長は慌てて頷いた。「はい。乾いた土地ですので、煮込みを少し軽めに。鶏のだしも薄くいたします」「お願いします」 それだけのやりとりなのに、周囲の空気はしんと冷えていった。 皆が感じている。これはただの療養前の挨拶ではなく、別れを恐れる者の顔をしている。だが誰も、その言葉を口にできない。口にした瞬間、それが本当になってしまいそうだからだ。 厨房を出たあと、廊下の窓辺でリュゼリアは少し足を止めた。 息が浅い。胸が重い。ほんの短い距離を移動しただけなのに、肺の奥で細い火が燃えているみたいだった。「お戻りください」 アイダが低く言う。「もう十分です」「……そうね」 自分でも、さすがに少し無理をしたとわかる。 だが、厨房の匂いも、パンの焼ける音も、侍女たちの動きも、今日見ておけてよかったと思った。あと半年という言葉を聞いてしまったあとでは、何気ない日常のひとつひとつが急に愛おしい。見慣れた屋敷の奥まった光景ですら、もう二度と同じ温度では見られない気がする。「午後は温室へ寄りたいわ」 ぽつりと言うと、アイダがはっきりと顔をしかめた。「なりません」「まだ言い終えていないのよ」「駄目です」「一目だけ」「駄目です」 その強さに、リュゼリアは思わず笑った。喉に引っかかるような、小さな笑いだった。「今日はずいぶん厳しいのね。」「奥様がずいぶん無茶だからでございます」 そのやりとりを、廊下の先からヴィルレオが見ていた。     ◇ 彼は書斎から出てきたところだった。 午前中から続く南の別邸の準備、医師とのやりとり、侯爵夫妻への説明、王都側へ出す書状の修正。処理しなければならぬ事柄は山ほどある。ふだんならその程度で感情が揺れることなどない。だが今日は、ひとつ書類へ目を通すたび、別の場所でリュゼリアが何かをひとつずつ片付けているのだという感覚が、棘のように意識の端へ刺さり続けていた。 そ
last updateLast Updated : 2026-07-14
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