All Chapters of 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました: Chapter 21 - Chapter 30

64 Chapters

第3話 飾りの妻⑦

 あまりに率直で、あまりに愚かな告白だった。「平気なわけ、ないでしょう」 少しだけ、笑ってしまう。怒りではない。呆れと、どこか泣きたいような気持ちが混ざった笑いだった。「そうだな」 ヴィルレオも否定しない。「だが、お前はいつも笑っていた」「笑うしかありませんもの」「なぜだ」「公爵夫人だからです」 即答だった。「あなたの隣で、しかめ面や泣き顔ばかり見せて、何になりますの」「夫婦だ」 その一言は、思ったよりずっと強く響いた。 リュゼリアは息を止める。 夫婦だ。 あの言葉を、彼はどんな思いで口にしたのだろう。義務としてか、立場としてか、それとも。「……夫婦、ですか」 問い返した声は、自分でも驚くほど静かだった。「そうだ」「でしたら、」 リュゼリアは膝の上で指を組み、窓の外を見た。夕暮れの街並みが流れていく。人々の暮らしの灯りが、一つまた一つと通り沿いに灯り始めていた。「少しだけでも、そう思える時間がほしかったです」 ヴィルレオは何も言わない。「外の方々がいないところで。誰の視線もない食卓で。夜の寝室で。そういう場所でも、わたくしがあなたの妻であると思える時間が」 言ってしまえば、ひどく幼い願いだ。だが、それこそがずっと欲しかったものだった。豪奢な贈り物でも、派手な愛の言葉でもない。ただ、二人きりのときにも、自分がこの人の隣にいてよいのだと感じられる瞬間が。 ヴィルレオの手が、膝の上でゆっくり握られるのが見えた。「……俺は、うまくできなかった」 低く絞るような声だった。「それは知っています」「知っていて、ずっと何も言わなかったのか」「言っても困らせるだけだと思っていました」「困らせればよかった」 あまりにも即座で、リュゼリアは思わず彼を見る。 彼もまた、こちらを見ていた。青灰色の瞳の奥に、いつもの冷たさとは違う、焦れたような熱がある。「お前は、俺が気づかないまま耐えれば済むと思ったのかもしれないが」 ヴィルレオは低く続ける。「気づいた時には、もっと困る」 その言葉に、胸の奥で何かが静かに震えた。 気づいた時には、もっと困る。 それはつまり、彼にとっても、もう見過ごせないところまで来ているということなのだろうか。 けれど、そこへ希望を見てはいけないと、理性が強く告げる。遅い。遅すぎる。そういう物
last updateLast Updated : 2026-06-24
Read more

第4話 崩れる音①

 その夜、リュゼリアは寝室へ戻ったあと、しばらく鏡の前から動けなかった。 ルーデンベルク侯爵家から帰還したのは夕刻を少し回ったころだったが、そこから衣装を解き、髪飾りを外し、頬にのせた薄い化粧を落とすまでの時間が、いつもの何倍も長く感じられた。鏡の中の自分は相変わらず整っている。蜂蜜色の髪は丁寧に結い上げられ、薄青の瞳は少し疲れて見えるものの、まだ公爵夫人としての輪郭を保っていた。 けれど、衣装を一枚外すたび、その輪郭の内側から別の現実が滲み出してくる。 肩が重い。胸の奥はじくじくと痛み、喉には茶会で飲み込んだ甘さと香の匂いがまだ薄く残っている。コルセットを緩めた瞬間、呼吸が少し楽になったはずなのに、今度は全身から一気に力が抜けて、膝が笑いそうになった。「奥様、座ってくださいませ」 アイダの声が、いつもより近く聞こえた。「立っていらっしゃるだけでもおつらいのでしょう」「……少し、疲れただけよ」「その“少し”が、もう信用できないことはご承知のはずです」 返す言葉がなく、リュゼリアは鏡台の前の椅子へ腰を下ろした。ビロード張りの座面はやわらかいのに、背骨へ触れる感触だけが妙に硬く感じる。若い侍女たちが気を遣って部屋の出入りを控えているせいか、寝室には静けさが濃かった。暖炉の火がぱちりと小さな音を立て、そのたび、今日の茶会で交わされた笑い声や賛辞が、遠い別世界のもののように思える。 飾りの妻。 窓辺で口をついて出たあの言葉が、まだ胸の奥にひっかかったままだった。社交の場では完璧に微笑めた。公爵夫人として一分の隙もなく振る舞えた。それなのに、ひとたびドレスを脱ぎ始めると、自分が美しく飾られていたぶんだけ、内側が空っぽだったことを思い知らされる。 ヴィルレオは「終わっていない」と言った。 あれは本心なのだろうか。社交の場で切り上げざるを得なかった話を、あとでちゃんと続けるつもりなのだろうか。それとも、あの場ではそう言うしかなかっただけなのだろうか。 期待したくない。けれど、あの一言をまるごと無かったことにもできない。「奥様」 アイダがそっと呼ぶ。「夕食はお部屋にお持ちいたします。旦那様へもそのようにお伝えしてあります」「旦那様は?」「書斎にお戻りになりました。北方から来た書状の返答があるとのことで」 やはり、と思う。 馬車の中であのよ
last updateLast Updated : 2026-06-24
Read more

第4話 崩れる音②

「まだ起きていたのか」「少し熱っぽくて、寝つけないだけです」「熱があるのか」 低い声が一段沈む。アイダが代わりに答えた。「先ほどからお体が温かく、薬を追加で飲んでいただいたところです」 ヴィルレオはすぐ寝台のそばへ来た。そして躊躇いのあと、今度は迷わずリュゼリアの額へ手を当てた。 大きな掌は思っていたより少し冷たく、そのひんやりした温度が火照った皮膚に触れた瞬間、リュゼリアは思わず目を閉じた。ほんの数秒。たったそれだけの接触なのに、喉の奥で何かが細く震える。「……熱いな」 彼は呟くように言った。「大したことはございません」「お前の“大したことはない”は信用しない」 きっぱりした口調だった。以前なら、そんなふうに言われれば少し傷ついたかもしれない。けれど今は、その不器用な断定の中にある焦りがわかってしまう。「旦那様、本日はもうお休みになったほうが」 アイダが促すように言う。「夜分に奥様のお部屋に長くいらっしゃると、使用人たちが落ち着きません」 それは半分は本当で、半分は嘘だった。アイダはたぶん、二人に必要以上の刺激を与えたくないのだ。熱のある夜に、解決できない話を深めさせたくない。 ヴィルレオもそれを理解したらしく、短く頷いた。「明日、午前の予定はすべて外せ」「でも、明日は屋敷で春の慈善縫製会の打ち合わせが」 リュゼリアが言うと、彼の眉が寄る。「それが何だ」「主催側が公爵家ですの。ルーデンベルク侯爵夫人も、視察を兼ねて少しお立ち寄りになると仰っていました」「断れ」「前日の茶会であれだけ顔を合わせたあとですもの、わたくしが突然寝込んだとなれば、余計な憶測が立ちます」「憶測より体のほうが先だ」「旦那様」「明日も人前へ出るつもりか」 その言葉の鋭さに、リュゼリアは一瞬だけ言葉を失った。 責められているわけではない。わかっている。けれど、彼の口調はいつも心配を心配らしく聞かせてくれない。胸に刺さるのは、言葉の形ではなく、その奥にある焦れのほうだ。「……少し顔を出すだけなら」「駄目だ」「わたくしは公爵夫人です」「だから寝ていろと言っている」 寝台の脇で交わされる低い言葉の応酬に、寝室の空気が少しずつ張りつめていく。暖炉の火の音だけが、その隙間を埋めるように小さく爆ぜた。 リュゼリアはシーツの上で指先を絡めた。
last updateLast Updated : 2026-06-25
Read more

第4話 崩れる音③

「済まないわ。昨日あれだけ大勢の前へ出ておいて、今日になって突然隠れるように休めば、余計に騒ぎになる」「騒ぎになっても構いません。奥様のお体のほうが」「駄目よ」 珍しく強く言った自分の声に、リュゼリア自身が少し驚いた。けれど、驚いたのはアイダも同じだったらしい。「……奥様」「お願い。せめて、最初だけでも顔を出させて」 その声音が懇願に近かったのだろう。アイダの瞳に深い苦さが浮かぶ。「旦那様がお許しになりません」「旦那様がいらっしゃる前に支度を済ませます」「そんな子どものような真似を」「子どもでも結構よ」 言いながら、リュゼリアの胸は苦しかった。無理を通そうとしている自覚はある。わかっている。わかっているのに、寝台の上で今日一日をやり過ごす自分の姿が、どうしても耐え難かった。 昨日の社交の場で、自分は飾りだと思い知った。けれど、では何もしないまま閉じこもっていれば、ますます“ただ守られて置かれるだけの妻”になってしまう気がしたのだ。 それが愚かな反発だとわかっていても。 支度は簡素なものになった。体を締めつけるコルセットはいつもより緩く、ドレスも軽い素材のものが選ばれた。髪は高く結い上げず、やわらかく後ろへまとめるだけ。病人に見えない程度に血色を足しながら、アイダは終始無言だった。その沈黙は怒りではなく、止められないことへの諦めに近く、かえってリュゼリアの胸に重くのしかかった。 立ち上がると、視界が一瞬だけ白く揺れる。「ほら、ご覧くださいませ」「大丈夫」「大丈夫ではありません」「歩けるわ」「歩けることと、人前へ出てよいことは違います」 その言葉をやり過ごしながら、リュゼリアは扉へ向かった。廊下へ出た瞬間、屋敷の朝の空気が思いのほか冷たく、肺の奥へ細い刃のように入ってくる。思わず足を止めたところへ、前方から重い足音が近づいてきた。 ヴィルレオだった。 彼は朝食のため食堂へ向かう途中だったのだろう。濃い色の上着をきちんと着込み、すでに公爵の顔になっている。だが、ドアの前に立つリュゼリアを見た瞬間、その顔から一切の温度が消えた。「何をしている」 ひどく静かな声。「……おはようございます」「挨拶を聞いているのではない」 青灰色の瞳が、彼女の顔色と衣装と、廊下に立っているという事実のすべてを瞬時に測っていくのがわかった。
last updateLast Updated : 2026-06-25
Read more

第4話 崩れる音④

 倒れたいわけがない。倒れるのが怖いから、今こうして立っていようとしているのだ。立っていられるうちに立ち、笑えるうちに笑い、公爵夫人として自分の輪郭を保っていたいのだ。 だが、その思いをうまく言葉にできないまま、咳だけが続く。「……っ、げほ、……ごほっ」 喉を押さえた指の隙間に、ほんのわずかな温かさが滲んだ気がした。ぞっとして手を見る余裕はなかったが、血の気が引く。「もう十分です、奥様!」 アイダの声が、半ば悲鳴のように響いた。 その時、玄関ホールの向こうから新たな来客の声がした。予定より早く到着したらしいルーデンベルク侯爵夫人と、その随伴の婦人たちだった。「まあ、公爵様? 夫人? お早うございます――」 明るい声が、途中で止まる。 視線が、廊下の中央でヴィルレオに支えられているリュゼリアへ集まる。公爵家の使用人たちも、到着した客人たちも、一斉に息を呑んだのがわかった。 最悪だった。 こうなりたくなくて立っていたのに、いちばん見られたくない形で、人前の中心へ引きずり出されてしまった。「ご、ごめんなさ……」 謝ろうとした途端、咳がまた喉を引き裂いた。「げほっ、げほっ……っ」 口元を押さえるハンカチへ、今度ははっきりと赤が落ちた。それを見たアイダが息を止める。ルーデンベルク侯爵夫人の顔からも色が引いた。「リュゼリア!」 ヴィルレオが初めて、呼び捨てるような勢いで名を呼んだ。 次の瞬間、床が遠くなった。 視界の端から光が抜けていく。大理石の床も、玄関ホールの高い天井も、誰かの驚いた顔も、全部が急速に薄れていく。足先から力が消え、膝が折れる。ヴィルレオの腕が支えようとした感覚だけが最後に残ったが、それさえもすぐ白い闇へ溶けた。 崩れる音がした。 それが何の音だったのか、リュゼリアにはわからなかった。誰かが落とした銀盆の音だったのか、自分の体が支えを失った音だったのか。それとも、胸の内で長く保ってきた何かがとうとう砕けた音だったのか。     ◇ どれくらい意識がなかったのかはわからない。 遠くで声がしている。幾重にも重なった声。誰かが走る足音。扉が開閉する気配。どれも水の底から聞いているみたいにくぐもっていた。「医師を、いますぐ!」「馬車を回せ、王都の内科医もだ!」「熱が高すぎます、冷水を!」「奥様、奥様、聞こえます
last updateLast Updated : 2026-06-26
Read more

第4話 崩れる音⑤

「誰がそう言った」「でも……」「誰が」 言い切る声の強さに、部屋にいる誰もが息を潜める。 ルーデンベルク侯爵夫人が、そっと一歩前へ出た。「閣下、わたくしたちは――」「お気遣いは感謝します、侯爵夫人」 ヴィルレオは彼女へ向けて短く頭を下げた。公の礼を失わないまま、しかし明確な線を引く口調だった。「本日の集まりは中止としてください。責はすべてこちらが負います」「そのようなこと、責だなどと……。むしろ、夫人をお休みさせるべきと進言すべきでしたのに」 侯爵夫人の声には本気の悔恨が滲んでいた。彼女もまた、華やかな社交の場で倒れぬよう微笑み続ける女たちの無理を知っているのだろう。 ヴィルレオはそれに答えず、再びリュゼリアへ意識を戻した。その時、医師が到着したという知らせが廊下から届く。「通せ」 診察は慌ただしかった。 年配の医師が呼吸の音を聞き、脈を取り、喉と胸の状態を確かめる。追加で呼ばれた若い助手が薬箱を開き、布や器具を並べる。熱は高い。呼吸は浅い。出血がある。少なくともこのまま屋敷内で様子を見るだけでは危険だと、医師の険しい顔を見ればわかった。「すぐに静かな部屋へお移しし、絶対安静です」「それだけで済む状態か」 ヴィルレオが低く問う。 医師は一瞬だけ言葉を選んだ。「本日倒れたこと自体が、かなり無理を重ねておられた証です。肺の奥で強い炎症を起こしている可能性もございます。詳しい診察を行わねば断定はできませんが……」「最悪を言え」 公爵らしい、容赦のない問いだった。 医師は目を伏せる。「放置すれば、命に関わります」 その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が完全に変わった。 使用人たちの息遣いが止まり、アイダがハンカチを握る手を強くする。ルーデンベルク侯爵夫人も顔を伏せた。誰も口を開かなかった。 命に関わる。 ごく当然の医師の言葉が、信じられないほど鋭く胸へ刺さる。リュゼリア自身でさえ、その現実をうまく飲み込めない。倒れた。熱がある。血を吐いた。けれどそれでも、命という言葉だけはまだ遠かったのに、いま急に輪郭を持って迫ってきた。 ヴィルレオはしばらく何も言わなかった。沈黙が長すぎて、誰も動けないほどだった。 やがて彼は、抑えた声で告げる。「必要な医師をすべて呼べ。王都でも領地でも構わない。金も時間も惜しむな」「かしこまり
last updateLast Updated : 2026-06-26
Read more

第4話 崩れる音⑥

「……皆さまの前で、申し訳ありませんでした」 言った途端、彼の表情がきつくなる。「また謝るのか」「でも……倒れてしまって」「倒れたことを謝るな」 低く、だが強い声。「お前は謝るべきことをしていない」「わたくしが無理をしたから」「それは俺も同じだ」 リュゼリアは目を瞬いた。 ヴィルレオは視線を逸らさず、ゆっくりと言葉を続ける。「止めればいいと思っていた。命じれば従うと思っていた。だが、お前があそこまで無理を通そうとした理由を、俺はちゃんと見ていなかった」 その言い方は、不器用で、苦かった。「……お前が人形のように守られるだけではいたくないことも。立っていたい理由が、お前の矜持にあることも」 リュゼリアはシーツの上で指先をわずかに動かした。熱で鈍った頭の奥へ、その言葉がゆっくり染みていく。「見ていなかったのは俺だ」 ヴィルレオがそう言って、唇を結ぶ。「だから、お前が人前で倒れた瞬間、俺は」 そこで初めて、彼は言葉を失った。 青灰色の瞳がかすかに揺れる。あの玄関ホールの光景が、彼の中でまだ終わっていないのだとわかった。人々の視線、血のついたハンカチ、崩れ落ちる体、それを自分の腕で受け止めた感覚。その一部始終が、まだ彼の中で生々しいのだろう。「……怖かった」 絞るように落ちたその一言に、リュゼリアの呼吸が止まる。 怖かった。 この人が、そんなふうに言うとは思わなかった。「お前が、あのまま目を開けなかったらどうしようかと」 次の言葉は、ほとんど囁きだった。けれど、部屋の静けさの中では痛いほどはっきり聞こえる。「俺は、何をしていたのかと」 リュゼリアは胸の奥がひどく熱くなるのを感じた。熱のせいではない。涙に似た、しかしもっと苦い熱だった。「旦那様……」「だから、もう謝るな」 彼は言う。「お前が倒れたことを、お前の罪にするな。俺にも止められなかった」 それは慰めでも美辞麗句でもなかった。ただ、事実として自分の非も引き受けようとする声だった。 リュゼリアは喉の奥の痛みを堪えながら、そっと息を吐く。「……わたくし、怖かったです」 今度は自分が言う番だった。「立っていられると思っていたのに、急に何も見えなくなって……皆さまの前で、わたくし、あんなふうに」 涙が出そうになる。けれど涙を流すと咳き込むのがわかってい
last updateLast Updated : 2026-06-27
Read more

第5話 余命半年①

 朝が来ても、リュゼリアはしばらく自分がどこにいるのかを思い出せなかった。 まぶたを開けた先にあったのは、見慣れた寝室の天蓋だった。薄い生成りの布越しに差し込む朝の光はやわらかく、窓辺のレースを淡く透かしている。遠くで鳥が鳴いていた。暖炉の火はすでに落ちているらしく、昨夜ほどの熱はない。かわりに部屋全体へ、朝特有の澄んだ冷えが満ちていた。 意識だけが先に覚め、体はまだ夢の底へ沈んだままだった。 胸の奥に、重い石が置かれているような感覚がある。息を吸えば、その石の縁が内側をざらりと擦る。喉の奥には薬と血の混じったような苦い後味が残り、唇の裏はひどく乾いていた。熱は昨夜より下がっているらしいが、そのぶん体の芯に残った疲労がはっきりわかる。まるで、ずっと奥のほうで静かに燃えていた火が一度弱まり、そのかわり燃えたあとの灰と煤ばかりが自分の中へ積もっているようだった。 倒れたのだ、と遅れて思い出す。 玄関ホール。早く着いたルーデンベルク侯爵夫人。使用人たちの視線。手のひらに滲んだ熱い赤。崩れ落ちる瞬間にヴィルレオの腕へ預けた重さ。そして、青の間の天井。医師の声。命に関わる、という言葉。 その記憶をひとつ拾うごとに、胸の奥が小さく強張る。けれど、驚くほど涙は出てこなかった。怖くないわけではない。ただ恐怖が大きすぎて、まだ感情の形へ落ち切っていないのかもしれない。「……奥様?」 すぐそばで、気配が動く。 アイダだった。昨夜のまま付き添っていたのだろう、簡素な椅子へ腰を掛けていたらしい。彼女はリュゼリアが目を覚ましたと知るや、固くしていた顔をわずかに緩め、すぐに立ち上がった。「お目覚めでございますか。お水をお持ちいたします」「ええ……ありがとう」 声はまだ掠れていた。だが昨夜よりはましだ。アイダが差し出した水を少しずつ口に含むと、乾いた喉がじわりと潤い、ひと息つける。「お熱は?」「夜半よりは下がりました。ですが、先生が午前のうちにもう一度お越しになります。……それから」 アイダは一瞬だけ言葉を切った。逡巡するような、何をどう順に伝えるべきか迷うような間だった。「王都から、旦那様がお呼びになった内科医がお二人いらしております。ひとりは王家にも出入りされるハールベルク先生、もうおひとりは呼吸器を専門になさるクレメンス先生です」 その名を聞いて、リュゼ
last updateLast Updated : 2026-06-28
Read more

第5話 余命半年②

 ヴィルレオは窓から少し離れた位置に立っていた。最初は椅子を勧められても座らず、腕を組みもせず、ただ真っ直ぐ立っている。その姿勢の硬さだけで、今の彼がどれほど張りつめているかが伝わってきた。「リュゼリア公爵夫人」 ハールベルク医師が穏やかな声で名を呼ぶ。「少しばかり細かく伺います。おつらければ途中で休みを入れましょう」「はい」「いつごろから、疲れやすさや息苦しさをお感じでしたか」 その問いから、診察は始まった。 秋の終わりごろから続いていた倦怠。冬に入ってから悪化した咳。朝方に強くなる胸の痛み。食欲の低下。立ちくらみ。微熱。夜ごと少しずつ眠りが浅くなっていたこと。ときどき血の味が喉の奥に上がってきていたこと。それを見て見ぬふりしてきたこと。 語っていくうちに、自分の体調不良がいかに長く、いかに多くの兆候を抱えていたかを、他人の口で整理されるように思い知らされる。これほどまで体は何度も助けを求めていたのに、自分はそれを「少し疲れやすいだけ」と言い換え続けてきたのだ。「月のものは」「不順になっております」「睡眠は」「浅いです。ここ数か月は、夜中に何度か目が覚めます」「食事量は以前の何割ほどでしょう」 クレメンス医師が問う。「……半分、あるかどうか」「無理にでも召し上がろうとは」「しておりました。ですが、最近は食べること自体が苦しくて」 そのやりとりのたび、ヴィルレオの気配がひとつずつ重くなるのがわかった。彼は何も口を挟まない。だが沈黙の質が、痛いほど変わっていく。 診察は想像以上に長かった。脈、呼吸音、胸の響き、喉の状態、体の冷え、指先の色。ときおり深く息を吸うよう求められ、そのたび咳き込みそうになって、アイダがすぐ水を差し出す。最後にハールベルク医師はしばらく考え込み、クレメンス医師と小声で数語を交わした。 そのささやきが止んだ瞬間、部屋の空気がひどく静まった。 リュゼリアは、来るのだと思った。 あの言葉が。まだ名前のない不安へ、はっきりした輪郭を与える何かが。「公爵夫人」 ハールベルク医師が、先ほどまでより少し低い声で言う。「単刀直入に申し上げます。あなたのお体は、すでに長く無理を重ねすぎております」 リュゼリアは膝の上の手をそっと重ねた。指先が少し冷たくなっていく。「肺の深いところに炎症がございます。慢性的な
last updateLast Updated : 2026-06-28
Read more

第5話 余命半年③

 医師が名前を呼ぶ。だが、リュゼリアはその続きを待たずに、ゆっくり首を振った。「いいえ、曖昧なお慰めは結構です。……知りたいのです。わたくしの命は、あと半年ほどなのですね」 ハールベルク医師は長い沈黙のあと、静かに答えた。「その可能性が高い、とお考えください」 確定ではない。だが、否定でもない。 その言葉を聞いた瞬間、初めて、胸の奥へ冷たいものが真っ直ぐ落ちてきた。 死ぬのだ。 自分は。 半年ほどで。 春を越えたあと、あるいは越えられずに。 死ぬ。 その認識が、遅れて体の内側へ染みていく。指先が冷える。耳の奥で血の音が遠く鳴る。涙はまだ出ない。代わりに、ひどく静かな場所へ落ちていく感覚があった。 ヴィルレオが何か言った。だが最初は耳に入らなかった。「……治療法は」 彼の声が、二度目でようやく意味を結ぶ。「他にないのか。王都の外でも、国外でも」「可能性のある治療はすべて試みる価値があります」 ハールベルク医師は慎重に答える。「ですが、奇跡のような逆転をお約束はできません。いま必要なのは、まず確実にお体を休ませることです」「休ませれば、持ち直すのか」「悪化を遅らせることはできます」 その言い方が、ヴィルレオの表情をさらに硬くする。「遅らせる、ではなく――」「旦那様」 気づけば、リュゼリアは彼を呼んでいた。 ヴィルレオが振り返る。彼の顔をこんなふうに正面から見るのは久しぶりな気がした。強張った顎の線。血の気のない唇。青灰色の瞳に宿る、どうしようもない焦り。「……もう、よろしいです」 そう言うと、彼の眉が寄った。「よくない」「でも」「よくない」 低い、けれどほとんど掠れた声だった。 リュゼリアは目を閉じたくなった。この人のそんな声を聞きたくなかった。聞けばきっと、自分まで何かを期待してしまうから。     ◇ 診察が終わったあと、医師たちは別室で薬や療養方針の相談をするため一度退いた。クレメンス医師は新しい処方を書きつけ、ハールベルク医師は療養に適した地方の候補を挙げていた。南の空気の乾いた領地がいいのか、それとも王都からあまり離れぬ静養地がいいのか。咳を悪化させぬ温度と湿度。移動にかかる負担。食事内容。 それらの話は、別の世界の話のように聞こえた。 小応接間にはリュゼリアとヴィルレオだけが残された。
last updateLast Updated : 2026-06-29
Read more
PREV
1234567
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status