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第301話

風香は今にも涙がこぼれそうな目で、歯を震わせながら言った。「わ、私……ほら、足首がこんなに腫れてきて……」大げさに演技しているわけではない。実際、額に汗がにじむほどの痛みだった。その後、風香が何を言ったのか、一雄の耳には入っていなかった。彼の意識は、「当然です」という一言に向けられていた。風香はただ足首をひねっただけで、立ち上がることもできない。一方、真帆は交通事故で全身に重傷を負い、頭にも怪我を負い、脚も骨折していたというのに……目を覚ましてから一度たりとも「痛い」と口にしなかった。「一雄さん……」風香は自分の足首を見てから一雄を見上げ、困ったような表情を浮かべた。「歩けるか?」一雄の表情は冷たく、その声も淡々としており、心配の色はまったくなかった。「こんなに腫れていて、本当に痛いんです……」風香は「歩けません」とは言わず、何度も痛みだけを訴える。つまり、自力では歩けないということだった。ここは庭園で、すぐに誰かを呼ぶこともできない。今この場で彼女を屋敷まで連れて帰れるのは、一雄しかいなかった。一雄は辺りを見回した。普段なら庭師がいるはずの庭園だったが、今日は姿がない。おそらく浩一郎があらかじめ下がらせていたのだろう。その時、不意に冷たい風が吹き抜けた。風香は思わず身震いし、腕をさすった。その様子を見た一雄は、仕方なく自分の上着を脱いで風香の肩に掛けると、身をかがめて風香を抱き起こし、右腕を支えながら立たせた。「これで歩けるか?」風香は片足だけで立ち、痛めた足を浮かせたまま黙っていた。「無理なら、安藤先生を呼んでくる」安藤康太(あんどう こうた)は西園寺家の専属医だ。浩一郎も健康とはいえ高齢のため、万一に備えて屋敷に常駐させていたのである。「い、いえ、大丈夫です」風香は慌てて首を振り、ぎこちなく笑った。「一雄さんに支えてもらえれば……たぶん歩けます」「ああ」一雄は短く頷いた。屋敷へ戻る道中、風香は何度も一雄にもたれかかろうとしたが、一雄は決してその隙を与えなかった。応接間へ戻ると、浩一郎は風香の姿を見てすぐ使用人に安藤先生を呼ぶよう命じ、良江も水を持って来て彼女の足を洗った。「一雄、風香さんはどうしたんだ?お前に任せたはずだろう。どうしてこんな怪
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第302話

足首を捻ってしまった風香は、しばらく西園寺家へ顔を出すことができなくなった。その間、一雄は久しぶりに静かな日々を送っていた。 とはいえ、風香はじっとしていられなかった。部屋で療養していても、心はずっと一雄の元へ飛んでいた。「風香」コンコンとドアを叩き、母の葉月雅美(はづき まさみ)が薬を持って部屋へ入ってきた。風香がスマホを手にしているのを見ると、小さくため息をつく。「そんなふうにスマホを握りしめて待ってばかりいないの」「誰が待ってるなんて言ったの?」図星を突かれた風香は慌ててスマホをベッドに放り投げ、なんでもないふりをして足に目を向けた。「つまらないだけよ」「母親に隠し事なんてできないわ」雅美は苦笑しながら首を振った。「風香、あなたは私が産んだ子よ。分からないと思う?」そう言って腫れた足を自分の膝に乗せ、薬を塗りながら尋ねた。「風香、本当に一雄さんのことが好きなの?」好き……風香はしばらく黙り込み、その問いを自分自身にも投げかけた。一雄を好きなのか。答えは最初から決まっていた。一雄に以前の会社から引き抜かれたあの日から、彼を頂点に立たせると心に決めていた。だから後になって、本当は一雄が自分を利用するためにムニンジュエリーへ引き抜いたと知っても、何とも思わなかった。むしろ、自分が一雄にとって役に立つ存在だったことが嬉しかったほどだ。その後、一雄が麗香と婚約するという噂が流れた時、風香は丸一週間眠れなかった。容姿なら麗香にも負けない。才能に至っては、あの世間知らずのお嬢様より何倍も上だという自負もあった。それでも、自分では麗香には敵わないことも分かっていた。理由はただ一つ。鶴見家には政界に太い人脈があったからだ。あの頃、風香は本気で諦めようと思った。だが、一雄が政府と企業の共同開発地を手に入れたと聞いた瞬間、彼の狙いを悟った。麗香はただの駒。用済みになれば捨てられる駒に過ぎない。風香には、それが自分への道を切り開いてくれているように思えた。だからこそ、彼女は葉月家と西園寺家に接点を作ろうと、積極的に動き始めた。葉月家ももちろん協力的だった。西園寺家ほどの相手と縁戚になれるのなら、誰だって願うことだ。しかし、その矢先に真帆が現れた。一雄は
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第303話

「この世にはね、有名になるために、毎日どれだけの人が別人みたいに顔を変えていると思う?」そう言って雅美は振り返った。その横顔の半分は闇に溶け込み、いつもの穏やかで優しい母親の面影は、そこにはもうなかった。「お母さん……」風香は暗がりに目が慣れて母を見上げた瞬間、急に母がとても遠い存在になってしまったような気がした。「風香、あなたなら、お母さんの言いたいことくらい分かるでしょう?」「それって……」風香は母の考えに気づいた。けれど口にはできなかったし、口にしたくもなかった。まして、それが母親の考えだなんて、信じたくもなかった。しかし、雅美の確信に満ちた眼差しを見た瞬間、風香は目を見開き、思わず声を荒げた。「そんなの無理よ!」真帆に似るよう整形して、一雄さんのそばで真帆さんの代わりになれだなんて、そんなこと受け入れられるはずがなかった。「ほんの少し整えるだけよ。そんなに慌てて拒むことはないでしょう?」雅美は腹を立てることもなく、聞き分けのない子どもを見るような眼差しで娘を見つめた。「よく言うでしょう?目は口ほどに物を言うって。この目というのはね、人の心をいちばん惹きつけるものなのよ……」そう言いながら一歩ずつ近づき、娘の顔をじっくりと眺める。どこから見ても申し分ない顔立ちだった。だが、その瞳の奥には、気づかれないほどの狂気が静かに渦巻いていた。「風香、あなたは望みを叶えたくないの?」「私は……」風香は唇を噛み締めた。さっきまでのように、きっぱり否定することはもうできなかった。娘が迷い始めたのを見て、雅美は畳みかけた。「風香、お母さんにはあなたの気持ちが分かるわ。この世に身代わりになりたい人なんていない。でも、その身代わりが、いつか本物に取って代わらないと、誰に言い切れる?西園寺夫人になって、一雄さんの心をしっかり掴んでしまえば、生きているあなたが、もうこの国にはいない彼女に勝てないはずがないでしょう?」「先に……西園寺夫人になる……?」風香はその言葉を小さく繰り返し、瞳に迷いと期待を宿した。その変化を見逃さず、雅美はさらに優しく語りかけた。「そうよ、風香。あなたは一雄さんと結婚したいでしょう?だったら最終的な目標は西園寺夫人になること。そのために、少しだけ手段を工夫する。何が悪いの?」
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第304話

一雄さんにとって……心安らげる存在に、ならなくちゃ……風香は母の言葉を胸の中で繰り返しながら、無意識に自分の頬へ手を当て、唇をきつく噛み締めた。まるで、何か大きな決心を固めようとしているかのように。これまで彼女が何より誇りに思ってきたもの。それは仕事の能力と、この顔だった。けれど今は、一雄のためにその顔を別の顔に変えようとしている。しかも、自分がいちばんなりたくない相手の顔に。一雄さん……ここまであなたのために尽くしてきたのに、それでも私を見ようとしないのなら……一番罪深いのは、あなたよ。胸の内でそっとそう呟くと、目の奥がじんと熱くなり、こらえきれなかった涙が静かに頬を伝って流れ落ちた。西園寺グループの休暇が明けると、風香は体調不良を理由に会社へ休暇届を出し、「病院で検査をする」とだけ伝えた。浩一郎の後ろ盾もあったため、一雄は何も言わず、直哉に休暇の手続きをするよう指示した。それから一か月余り。車の後部座席に座る風香は、小さな手鏡を手に、自分の顔をじっと見つめていた。この目を見るたびに胸に込み上げてくるのは、嫌悪と、かすかな希望だった。……一か月前。「先生、この写真の人みたいな目にしていただけますか?」美容クリニックで、風香はスマホを医師へ差し出した。医師は人気女優の写真でも出てくるのかと思っていた。しかし、画面に映っていたのはごく普通の若い女性だった。もちろん整った顔立ちの美しい女性だった。だが、目の前にいる風香も決してその女性に劣ってはいない。カルテに目を落とした医師は、穏やかな口調で言った。「葉月さんでしたら、この方のような目に整形する必要はないと思います。むしろ、唇の形を少し整えることをおすすめします」しかし風香は、その提案にはまったく興味を示さなかった。冷たい表情のまま、淡々と尋ねた。「先生、知りたいのは一つだけです。この人のような目にできますか?もしできるなら、どれくらい似せられますか?」その強い意思を見て、医師もそれ以上は勧めずに答えた。「まったく同じというわけにはいきませんが……八割くらいなら近づけられると思います」「それでお願いします」風香は静かに頷いた。「でも、その八割似た状態の中に、私自身の目の特徴は残してください。一目見れば彼女に似ていると
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第305話

「一雄さん」風香は優しく声をかけた。その声に、一雄はわずかに眉をひそめたが、顔を上げた瞬間、その場で固まった。「……真帆?」目の前に立つ女性を一瞬、真帆と見間違えた一雄は、信じられないというように彼女の名前を呟いた。マスクで顔の半分を隠した風香は、その反応を見て苦く口元を歪めた。目的は果たせた。一雄は自分を真帆さんと見間違えた。けれど、それは同時に、一雄の心も目も真帆だけを映していることを、あらためて思い知らせるものだった。あの女はバツイチで、さまざまな騒動もあり、仕事の面でももう一雄を支えられないのに。いったい何が、そこまで一雄さんを惹きつけるのだろう。一雄はゆっくりと椅子から立ち上がると、一度目を閉じ、ゆっくり目を開いてから目の前の風香を見つめた。そしてすぐに眉を寄せ、不機嫌そうに言った。「どうしてマスクをしている?」その目元は確かに真帆によく似ていたが、風香の瞳には真帆のような澄んだ輝きはなかった。一雄はそれ以上深く考えなかった。もし注意深く見ていれば、整形直後特有のわずかな違和感にも気づいたかもしれない。術後まだ一か月余りしか経っておらず、完全には馴染んでいなかったからだ。だが、一雄はこれまで風香の顔をじっくり見たことがなく、以前とどこが違うのかなど、気づけるはずもなかった。風香はしばらく黙っていたが、マスクを外そうとはしなかった。一雄は返事がないことに気づき、再び顔を上げた。まだマスク姿のまま立っている風香を見て眉をひそめたが、その視線はまた真帆によく似た瞳とばったり合った。ほんの一瞬。胸の奥が不意に揺れた一雄は、反射的に目を逸らすと、小さく咳払いをして平静を装った。「マスクを外せと言っただろう。聞こえなかったのか?」その様子を見て、風香は自分の思惑が成功したことを悟った。それでも嬉しさは湧かなかった。むしろ喉の奥が締めつけられるように苦しかった。風香は深呼吸して声を整えた。「まだマスクは外せません」「どうしてだ?」一雄は短く問い返した。「休暇をいただいた時、病院へ検査に行くとお話ししましたよね」一か月前、休暇を取る理由として使った口実だった。「ああ……」一雄は何かを思い出したように頷いた。「まだ治っていないのか?」風香は静かに頷いた。すると
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第306話

一雄の名前を聞いた瞬間、真帆は胸を締めつけられた。だが、その後に続いた言葉に意識を引き戻され、静かに問いかけた。「つまり、あなたのところのデザイナーが契約を履行しないせいで、ニールグループが契約違反を問われるってこと?」和幸は頷いた。真帆が法律に詳しいことを知っていたため、和幸は隠さずに話し始めた。「もし個人のデザイナー名義で契約してたなら、うちの損害もそこまで大きくなかった。でも厄介なのは……これがグループ名義の契約だってことなんだ」真帆はすぐに事情を理解した。和幸と一雄は友人同士とはいえ、一雄は昔から公私をきっちり分けるところがある。個人的な付き合いを理由に、会社の利益を犠牲にするような人間では決してない。それは和幸も、真帆も、誰よりよく分かっていた。だから、そのデザイナーが本当に契約を履行しないとなれば、一雄が友情を考慮してもニールグループへ猶予を与えることはない。和幸がここまで追い詰められているということは、違約金も相当な額なのだろう。ふと何かを思い出したように、真帆は眉を寄せた。「でも、そのデザイナーが契約を守らないなら、それなりの理由があるんじゃないの?」その言葉に、和幸の視線が一瞬泳いだ。「り、理由なんて……何があるっていうんだよ」最後まで言葉を濁したまま、苛立ったように吐き捨てた。「ただ気取ってるだけだよ。あいつ、自分を何様だと思ってるんだか」真帆は和幸の性格をよく知っている。それに職業柄、人が嘘をついているかどうかを見抜くのも得意だった。和幸が本当のことを話していないことは、すぐに分かった。それでも真帆は追及せず、ただ黙って和幸を見つめ続けた。その視線に耐えきれなくなった和幸は、とうとう根負けした。「分かったよ、話す!」和幸は勢いよく椅子を引いて立ち上がると、リビングを何度も行き来し、最後にはダイニングテーブルへ両手を突いた。そして、まるで苦しい事実を認めるかのように口を開いた。「そのデザイナーは……俺の弟なんだ」「弟……?」今度は真帆が言葉を失った。十年以上の付き合いになるが、弟がいるなんてことは、初めて聞いた。「ああ、そうだ!」和幸はテーブルの縁を強く握り締め、感情を爆発させた。「父さんが浮気して生ませた隠し子だ!」荒い息を吐きながら立ち尽くしていたが、しばらく
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第307話

和幸の両親は仲が良く、彼は恵まれた環境で育った。真帆と一雄とは違う。真帆は長い間行方不明となり、ようやく家族のもとへ戻ることができた身、一雄は名家に生まれた私生児。まさか長谷部家にも、人には言えない事情が隠されていたなんて。ふと真帆の脳裏に、「人生は思いどおりにはいかない」という言葉が脳裏をよぎった。だが、今は感傷に浸っている場合ではない。しばらく黙っていた真帆は、静かに口を開いた。「それで……どうするつもりなの?」そうは言っても、この問題を解決する方法は誰の目にも明らかだった。一つは契約を履行すること。もう一つは契約違反として違約金を支払うことだ。和幸も真帆の言いたいことは分かっていた。彼は仕方なく苦く笑った。「真帆、本当にとんでもない額の違約金なんだ……父さんも今は家で慌てふためいている。ニールグループは運転資金の大半をそのプロジェクトにつぎ込んでるし、もし違約金を払えば、資金繰りは間違いなく大打撃を受ける」「つまり、唯一の方法は……」真帆は少し言いづらそうに続けた。「あなたの弟に、その契約を受けてもらうことなのね」「でも、あいつが首を縦に振らないんだよ」和幸は肩を落とした。「父さんまで自ら説得に行ったのに、あいつは何を言っても聞かない。それどころか『仕事がきつすぎる』なんて言い出してさ。調子に乗りすぎだ」言えば言うほど腹が立つのか、声にも苛立ちが混じっていた。「父さんなんて、俺に今すぐこの契約問題を片づけろって命令してきたんだ」「本当に?」真帆は驚きを隠せなかった。「デザイナーの弟って、いったい誰なの?」「お前も会ったことある」「いつ?名前は?」真帆はものすごく気になっていた。和幸が言っている相手が誰なのか、どう考えても思い出せない。「会ってみたいか?」和幸は名前には触れず、逆に尋ねた。真帆は頷いた。「うん」「分かった」そう言って、和幸も頷いた。「じゃあ、今から帰国便を取る」だが、予約を入れようとしたところで、ふと思い出したように顔を上げた。「真帆、今回帰国したら……どうするつもりなんだ?」その「どうする」の相手が一雄であることは明らかだった。真帆は立ち上がりかけた足を一瞬止めたが、そのまま歩き出しながら答えた。「なるようになるよ」和幸は肩をすく
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第308話

その口調は冷たく、表情も淡々としていた。だが和幸が昔から一番気に入らないのは、大和のその自惚れた態度だった。すべてを見下ろしているような、傲慢な態度だ。「ムニンジュエリーとの契約は、もう覆せないんだ」和幸は遠回しな言い方はせず、単刀直入に切り出した。「契約を守れよ。ぐずぐずするな」「俺はやらない」大和は素直に従う性格ではない。「契約を結んだのは俺じゃない。俺には関係ない」和幸は怒りを押し殺し、大きく息を吸うと、描き上がったばかりの絵の前まで歩み寄った。「大和、お前、自分を何様だと思ってる?長谷部家の御曹司にでもなったつもりか?」和幸は椅子の背を強く握り締め、その指先は白くなっていた。声にもわずかに怒りが滲んでいた。「そんなくだらないプライドばかり振りかざすな。長谷部家がなければ、今のお前なんて、ただのどこにでもいる大学生にすぎないんだ」「その話なら、もう何度も聞いた」大和は表情一つ変えない。和幸に存在を知られてから、その言葉は何度も繰り返されてきた。「そうか。気にしないって言うなら、長谷部家から与えられたものを全部返してみろ!」和幸は冷たい目で大和に近づき、その耳元で低く言い放った。「もし俺が記者会見を開いて、親子鑑定書を記者たちの前で公表したらどうなると思う?天才画家『冬橋大和』の正体が、世間に知られたらまずい私生児だったなんて、面白いことになるだろうな?」私生児。その三文字が、大和の胸を深く抉った。大和は唇をわずかに開き、荒く息をつきながら拳を固く握り締めていた。全身から怒気が立ちのぼっていた。「今なら長谷部家に近づく機会をやる。お前、本当に捨てるつもりか?」その言葉が終わるや否や、大和は勢いよく振り返り、拳を振り上げた。和幸は咄嗟に半歩下がって身をかわし、その拳を受け止めた。もみ合う拍子に床へ置かれていた絵の具の瓶が何本も倒れ、真っ白な床へ鮮やかな色が飛び散った。「……ふん」大和の燃え上がるような視線を真正面から受け止め、和幸は冷たく笑った。「どうした?図星だったか?今まで黙っていただけで、俺が何も知らないと思うなよ。本当に父さんの言うように、お前が父さんの友人の遺児だったなら、父さんがお前のために俺と対立するわけがないだろ」そう言って、さらに言葉を重ねた。「お前が今こうして何
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第309話

真帆は芸術の世界に詳しいわけではない。それでも、冬橋大和という名前だけは一度や二度ではなく耳にしたことがあった。弁護士をしていた頃、未成年のファンが起こしたトラブルに関する事件を担当したことがある。その時、追われる側だった著名人こそが、冬橋大和だった。だが、ネット上に出回っている情報はあまりにも少なく、当時はあらゆる人脈を使って調べても、その正体も素顔も突き止められなかった。市場には冬橋大和の作品が実際に流通していた。だから実在する人物なのだとは分かっていた。それでも、本気で「その少女が作り上げた架空の人物なのではないか」と疑ったほどだった。それから何年も経って、まさかここで再びその名を耳にするとは思ってもいなかった。しかも世間で名を馳せる冬橋大和は、噂されていたような老芸術家でも隠遁した人物でもなく、まだ成人したばかりにしか見えない青年だった。そう思えば、さっき庭で見た絵にどこか見覚えがあったのも頷ける。あれこそ、冬橋大和ならではの画風だった。儚く繊細で、乱雑さの中にどこか空虚さを宿した作品。ただ……冬橋大和という名前だけでなく、「大和」という名前にも、真帆はどこか懐かしさを覚えていた。しかし、どこで会ったのか、どうしても思い出せない。「あの……こっちを向いてくれる?」和幸は「会ったことがある」と言っていた。けれど真帆には、いつ、どこで目の前の青年と出会ったのか、どうしても思い出せなかった。怒りの収まらない大和は、冷たい表情のまま振り返った。互いの顔を見た瞬間、大和は静かに、真帆は驚きと喜びに目を見開いた。「あなただったの!」真帆は思わず声を上げた。あの日、当たり屋だと勘違いしてしまった青年。そして、自分が傷ついていた夜、海辺で一緒に酒を飲んでくれた青年だった。和幸が「会ったことがある」と言った意味を、真帆はようやく理解した。会っていたどころではない。ただ、その青年が和幸の弟だったとは夢にも思わなかった。だからあの日、ニールグループの前で大和が当たり屋に因縁をつけられていた時、寒そうにしている彼へ会社から服を持ってきても、冷たく突き返されたのだ。そのあと会社で和幸に会った時、和幸までもが珍しく自分へ怒りをぶつけてきた理由も、今になってようやくすべて繋がった。二人は以前から知り合
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第310話

「和幸、離して!」真帆は慌てて駆け寄り、和幸を引きはがそうとした。だが和幸は怒りのやり場を失い、大和の胸ぐらをきつく掴んだまま離さない。「離せって?何で俺が離さなきゃいけない!」振り返ると、真帆を睨みつけた。「真帆、お前は下がってろ!巻き込みたくない!」そう言うなり、彼は大和の顔へ拳を叩き込んだ。和幸は怒りに任せ、一発、また一発と拳を振るい続ける。大和の頬は瞬く間に腫れ上がり、口元から血が滲んだ。真帆は止めようとしたが、どうしても引き離せなかった。このままでは本当に取り返しのつかないことになる。そう思ったその時、視界の端に絵の具箱が入った。真帆は咄嗟にそれを掴むと、勢いよく和幸の額へ振り下ろした。絵の具箱はそれほど重くはなかった。真帆に叩かれた和幸は、ぴたりと動きを止めた。呆然としたまま真帆を見つめ、信じられないというように口を開いた。「……お前、俺を殴ったのか?」「そうよ!」真帆は指先を震わせながらも、まっすぐ和幸を見返した。「和幸、自分が何をしてるか分かってるの?」大和は床へ倒れ込み、立ち上がれなくなっていた。和幸が再び手を出さないよう、真帆は慌てて大和の前へ立ちはだかった。その光景が、和幸の胸を深く抉った。「よくやったな……」和幸は不気味に笑った。「真帆、俺たち十年以上の付き合いなのに……お前は今日、この俺じゃなく、俺をどん底に突き落とそうとしてるこいつをかばうんだな」そして、目を真っ赤にしながら叫んだ。「真帆、お前、忘れたのか!浩一郎さんがお前を殺そうとした時、肋骨も脚も折られながら俺がお前を守ったんだぞ!交通事故に遭った時だって命懸けで助けた!一雄から逃がすために全部手配して、一緒に海外まで行った!」その声は張り裂けんばかりだった。「それなのに、お前はこいつのために俺に手を上げるのか!恩知らずだ!」「もうやめて!」和幸が自分への恩を一つ一つ数え上げるたび、真帆の胸は締めつけられた。「和幸、自分が彼をどんな姿にしたか見て!私は弁護士よ!故意にここまで暴行を加えたら、どれだけ重い罪になるか分かってる?今の状態で傷害鑑定を受ければ、懲役だって高額の賠償だってあり得るのよ!」「そんなのはどうでもいい!」和幸はすべてに絶望したような顔で叫んだ。「今日だけは絶対に殴る!殴り殺してやる!俺が
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